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[寄稿]あの大学生たちはなぜ清掃労働者のデモを「騒音」と呼んだのか

登録:2022-07-16 08:37 修正:2022-07-16 10:36
[ハンギョレS] イ・ラヨンの批評_延世大学の清掃労働者のデモを告訴 
 
「学習権」対「労働権」の構図は虚構 
全員が同等な権利を持つ市民 
清掃労働者のデモを告訴した学生たち 
「関係の哲学」振り返る時
7月6日、延世大学の清掃・警備労働者と学生らが共同記者会見を開き、大学側に労働者の処遇改善を求めている=シン・ソヨン記者//ハンギョレ新聞社

 延世大学の清掃・警備労働者たちが、賃上げと処遇改善を求め、1日1時間のデモを実施中だ。その過程で一部の学生が、清掃労働者を相手に学習権を侵害されたとして訴訟を提起した。彼らの声が現時点での延世大学の学生を代表するものとみなすことは難しい。3000人あまりの学生が労働者の闘争を支持するという意向を表明し、署名を通じて連帯したからだ。しかし、単に一部の学生の声だとしても、彼らが労働者の集会を訴訟の対象とみなしたという事実は、現在の労働と現在の勉強がどのような位置にあるのかを考えさせる。

 労働者のデモを非難するある学生は「教授のお言葉が聞こえないほどの騒音」だったといった。非常に興味深い表現だった。教授の話を侵害する騒音。講義室の教授の発言は「お言葉」だが、講義室の外の労働者の発言は「騒音」だ。彼はこの騒音が「学生を対象にした暴力」だと規定した。

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連帯より分離、この社会の素顔

 一部の学生のこのような突出した行動は、初めてのことではなかった。2019年2月、ソウル大学の労働者120人あまりが、処遇改善を要求し暖房を止めた時、一部の人々は、図書館だけは除くよう要求した。当時もまったく同じく「学習権の侵害」を理由にあげた。この事件について忘れられないコラムは、朝鮮日報に掲載されたソウル大学社会学科の教授の文章だ。彼はそのコラムで、図書館の暖房を止めたことを「救急救命室の閉鎖」にたとえ、「優秀な人々の勉強と研究を直接妨害する行為はタブー」だと主張した。彼らは「優秀な人々」だから私たちの共同体を「導く」と露骨に語ったように、今回の延世大学の清掃労働者を告訴した学生も、「学生が払った授業料で生活する清掃労働者」だといった。他のストライキより大学内で起こるストライキは、「勉強する人」がいる場所だという点で、韓国社会の素顔をありのまま示している。連帯よりは分離を、平等よりは上下を渇望する。

 一方、「私たちは同じ学校で仕事をするのだから、同じ学校の構成員と考える」という清掃労働者の発言は、まさに、米国の文芸評論家エレン・スカリーが著書『美と正義について(On Beauty and Being Just)』で強調した「すべての人の関係の対称」という概念を思い起こさせる。自分の位置、自分の能力、自分の悔しさに閉じこめられ、社会構成員間の関係に対する哲学を逃してしまった状態こそ、この社会の問題だ。

 労働者のデモが騒音になる理由は、音のデシベルのためではない。音の存在自体を騒音とみなしているのだ。昨年、ソウル大学で清掃労働者の死亡事件があったが、2019年にも真夏の窓がない休憩室で清掃労働者が死亡した。大学内の労働者の闘争は、日付だけを変えればいいというくらい毎年繰り返されている。死亡とデモが繰り返される間、労働者たちの要求事項はいつも同じだ。現在の延世大学の労働者は、時給440ウォン(約47円)の引き上げとシャワー施設の拡充など、きわめて基本的な要求のためにデモを行う。真夏にシャワーなしにスポーツ施設を運営すれば、当然、非難される。ところが、清掃労働者のシャワー施設の拡充要求は、どうしてある人たちにとっては問題になるのだろうか。

 一部の誤報は故意的なものであり、その故意的な見方が、いつのまにか普遍的な見方として定着する。デモが騒音なのではなく、デモを伝える手法が騒音なのだ。韓国のネット通販最大手のクーパンの労働者たちは、冷房施設の拡充などの基本的な処遇改善を要求するデモを行っている。最近、いくつかのメディアは、クーパンの労働者たちがコーヒーを飲んでいる場面を唐突に「酒席の宴会」だと報じた。誤報が拡散され、真実が明らかになると、訂正報道も謝罪もなく、記事を削除した。しかし、誤報はすでに一波万波に広まり、真実が伝わるスピードはつねに誤報より遅い。誤報は聞きたい話をしてくれるが、真実は知りたくない話を語るからだ。労働者をはじめとする社会的弱者に対する誤報は、しつこく生命力を得る。

 メディアの積極的な誤報生産について、金属労組は「予定された誤報」「(労働者たちが傾けるのは)酒瓶であるに違いないという執念が作った『意図された誤報』」だと論評した。予定された意図的な誤報、クーパンの労働者たちが何を言いたいのかは知る必要はなく、ただ、彼らは日中に酒宴をする無頼漢のように見えればそれまでだ。そうして、缶コーヒーは缶ビールにされてしまう。たとえ日中にビールを飲んでいたとしても、それは決して「ビール会合」にはならず、「昼間からの酒宴」と呼ばれるようになる。

 労働者の集会はたびたび、この「予定された誤報」の運命に直面する。2013年の希望バスデモに関する報道では、多くのメディアが暴力を強調するため、デモ隊が使った「武器」に言及した。「鉄パイプで大暴れ」(韓国経済)、「竹棒と鉄パイプ」(東亜日報)、「鉄パイプを振りまわすデモ隊」(中央日報)などと、蔚山(ウルサン)の現代自動車の労働者のデモを描写した。しかし、どの写真にも鉄パイプはみられず、希望バス企画団側は鉄パイプはなかったと主張した。企画団によると、当時、現代自動車の牙山(アサン)工場の非正規労働者が亡くなり、彼を追悼するための挽章(死者を追悼する文章が書かれた掛け物)用の竹材があった。挽章用の竹材は、「竹棒」を越えて「鉄パイプ」になったのだ。コーヒーが酒に違いないといってすり替わってしまったように、竹は鉄パイプにすり替わった。

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騒音が言葉になるまで

 私たちの日常は、この「意図された誤報」のように、他者の苦痛に対する防音壁であふれている。学習権は、その防音壁の中で耳をふさぐ権利ではない。講義室で響く教授の言葉と、講義室の外で響く清掃労働者たちの騒音が、上下ではなく相互対称的な関係になる可能性を考えてみたい。「学習権」対「労働権」という構図は虚構だ。学生と労働者の権利があたかも衝突するかのような絵を描くが、実際はすべて連帯を妨害したい資本が用いる悪だくみではないだろうか。

 スカリーが述べた「すべての人の関係の対称」を読み解いてみるならば、これは平等のための連帯だ。英単語の「フェア(fair)」には、「公正な」以外にも、「容姿がいい」、さらには「博覧会」という意味がある。よく博覧会は、存在を同等にみせてくれる公正な舞台として作用し、小さな企業にも比較的効果のある広報の機会を提供する。集会現場とは、まさにこの博覧会のように、同等な市民権を持つ市民をみせる公正な舞台だ。闘争の騒音が言葉になるまで、公正に対する「美しい」見方が必要だ。

イ・ラヨン|芸術社会学者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/1051153.html韓国語原文入力:2022-07-16 02:39
訳M.S

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