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韓進重工業「最後の解雇労働者」、37年ぶりに復職

登録:2022-02-24 01:54 修正:2022-02-24 07:48
金属労組とHJ重、名誉復職・退職で合意 
定年は過ぎたが、明日は「一日労働者」 
復職闘争しつつ労働者と共に闘う 
 
キム委員「亡くなった同志たちを思い出す 
希望バスと韓進重労組の成果」
昨年2月7日、民主労総釜山本部のキム・ジンスク指導委員が「復職祈願、希望こつこつ行進」の最後の目的地であるソウルの大統領府前噴水広場に到着し、あいさつを交わしている=共同取材写真//ハンギョレ新聞社

 「心の中で数千回叫んだ言葉、『私、復職します!』」

 キム・ジンスクさん(民主労総釜山(プサン)本部指導委員)が復職決定直後の23日午後、自身のツイッターに書き込んだ。「大韓造船公社・釜山影島(ヨンド)造船所・船殻工事部・船台組立課・溶接1職労働者キム・ジンスク」が、労組活動を理由として解雇されてから37年ぶりに、25日に復職する。全国民主労働組合総連盟(民主労総)・全国金属労働組合とHJ重工業が、キムさんの名誉復職と退職に電撃的に合意したことによる措置だ。この合意に則ってキムさんは25日に復職し、当日退職することになった。残る退職に関する事項は労使協議を通じて決定される。国営企業だった大韓造船公社は、1989年に韓進グループに買収されて韓進重工業となり、2021年に再び東部建設コンソーシアムに買収され、現在はHJ重工業となっている。

 キムさんは21歳だった1981年、大韓造船公社影島造船所に溶接工として入社した。1986年2月に労組の代議員選挙に出馬し当選した後、執行部の御用ぶりを暴露するビラを配布したことで警察の対共分室に連行され、取り調べを受けた。5カ月後の1986年7月、会社はキムさんを解雇し、その後キムさんは造船所に戻ることができなかった。

 キムさんは本紙の電話取材に対し「一緒に闘い、先に死んでいった同志たちが一番よく思い出され、申し訳ないとも思う」とし「あの方たちは皆この瞬間を待っていたはず」と語った。そして「希望バスの時に共に闘ってくれた方々、大統領府まで共に歩いてくれた方々、2年以上にわたり闘ってきた金属労組韓進重工業支会の力が一つになって、復職という結果を生み出したのだと思う」と述べた。

 「解雇労働者」のキムさんは、常に影島造船所の労働者と、そしてほかの労働者たちと共に闘ってきた。2003年の労組のストに対する会社側の損害賠償・仮差押え請求に抗議した。韓進重工業支会のキム・ジュイク支会長とクァク・チェギュ組合員が自ら命を絶った際にも、2011年に韓進重工業の労働者が整理解雇された際にも、先頭に立って闘った。とりわけ2011年に影島造船所の85号クレーンに立てこもった309日間の高空座り込みは、全国的な「希望バス」運動へと広がり、「新たな労働運動」という成果をあげた。影島造船所だけでなく、キムさんの姿は双龍自動車、KTX乗務員、嶺南大学病院などの解雇労働者のそばにいつもあった。労働者集会での演説はもちろん、85号クレーンで始めたツイッターメッセージで労働者の声を代弁し、人々の心に響かせた。

 しかし、肝心の自身は職場に戻れていなかった。2003年のキム・ジュイク、クァク・チェギュ組合員の闘争の後に韓進重工業の20人の労働者が復職したものの、キムさんは除外された。2009年、民主化運動関連者の名誉回復および補償審議委員会は、1986年のキムさんによる「労組民主化闘争」を民主化運動と認めるとともに不当解雇と認め、復職を勧告したが、韓進重工業はこれを受け入れなかった。

 満60歳の定年を前にした2020年、本格的な復職闘争が始まった。金属労組韓進重工業支会は社内でテントに立てこもるとともに、組合員たちがハンガーストライキを行った。民主化運動補償審議委員会は2020年9月に復職を再勧告し、国会環境労働委員会や釜山市議会も韓進重工業に復職を求めた。定年を翌日に控えた2020年12月30日からは、市民社会団体や他の解雇労働者たちが釜山から大統領府まで共に歩き、キムさんの復職を求めた。

 しかし会社側は、キムさんの復職は「背任」に当たるとして要求を拒否してきた。変化の兆しが見えだしたのは、昨年9月に東部建設コンソーシアムに韓進重工業が買収され、昨年12月にHJ重工業として再出発してからだ。今月20日ごろからキムさんの復職をめぐる議論は急速に進み、合意に至った。HJ重工業は「法律的資格の有無を離れ、かつて共に勤務した同僚かつ労働者が時代の痛みを経験したことを残念に思い、人道的観点から名誉復職と退職の道を開くことを決めた」と述べた。

 キムさんの復職・退任式は25日に行われる。行事の具体的な計画は確定していないが、キムさんは普段から望んでいた通り、社員食堂で組合員と食事し、自身が働いていた場所、そして先に世を去った同志のパク・チャンス、キム・ジュイク、クァク・チェギュ、チェ・ガンソの各氏が働いていた場所を回る予定だ。

 キムさんは「私は組合員もいれば工場もあるから37年ぶりとはいえ夢がかなえられたが、70~80年代の独裁政権時代に困難な中で闘っていた清渓(チョンゲ)被服労組、統一紡織、YHの労働者たちは帰るべき工場もない。釜山にも三和ゴムをはじめとする靴工場の労働者たちが依然として解雇者というレッテルをはられたまま残っているが、せめて民主化運動補償審議委員会が復職を勧告した労働者だけでも、特別法により名誉復職する道が開かれてほしい」と述べた。

パク・テウ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/society/labor/1032337.html韓国語原文入力:2022-02-23 20:11
訳D.K

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