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「戦犯となった朝鮮人青年」、苦難に満ちた65年間の戦いの末、無念の死

登録:2021-03-30 05:59 修正:2021-03-30 07:22
「最後のBC級戦犯」李鶴来会長死去
「韓国人BC級戦犯」被害者である故李鶴来同進会会長の2013年11月の姿。後ろの写真の一番後ろの列の右側から二番目が「戦犯」として収監されていた時代の李会長=パク・ジョンシク記者//ハンギョレ新聞社

17歳、泰緬鉄道建設捕虜の監視員に 
連合軍裁判で死刑言い渡され 
戦後、日本国籍の剥奪と共に恩給の対象から外れ 
 
1955年に70人余りが同進会結成、“補償”を要求 
1965年「韓日協定」の口実で窓口が閉じる 
1991年から法廷闘争始めたが、1999年に最終敗訴 
昨年まで国会に立法を要求

 「悲しいお知らせをしなければなりません」。「最後の朝鮮人BC級戦犯」の李鶴来(イ・ハンネ)同進会会長の死を知らせる訃報は、短い文章で始まった。在日コリアンが集団で居住する大阪の猪飼野(現在の東成区・生野区にまたがった地域)で「猪飼野セッパラム文庫」を主宰する藤井幸之助氏は28日、フェイスブックを通じて李会長が同日午後死亡したと明らかにした。享年96。

 「李鶴来さんが3月24日(水)に自宅内で転倒し、頭を打ち、足を骨折、病院に緊急搬送されました。集中治療室に入られ、コロナのため家族の面会も不可能な状態でしたが、手当ての甲斐もなく、本日3月28日(日)14時10分にお亡くなりになりました。ハンネさんは最後の最後まで、先に逝った仲間を思い、立法化に向けてがんばってこられました。それに対し、安倍晋三政権は力づくで立法化を阻んできた経緯があります」

 藤井氏の説明どおり、朝鮮人BC級戦犯の李鶴来さんの一生は、不当な日本の国家権力との戦いの連続だった。1925年、全羅南道宝城(ポソン)で3人兄弟の長男として生まれた彼は、1942年春、面長から突然呼び出された。「『南方捕虜監視員』を募集しているが、お前が行け!」勤務期間は2年、1カ月の月給は50ウォンだと言われた。17歳の少年は、2年だけ苦労すれば徴用と遠からず施行される徴兵を免れると考え、志願した。1942年8月19日、釜山(プサン)から東南アジアに向かう船に乗った。それから3年後、日本が敗れて連合国捕虜を虐待した罪でオーストラリアの軍事法廷で「死刑宣告」を受ける苦難の人生の始まりだった。

 1941年12月、太平洋戦争を起こした日本は、東南アジア戦線で破竹の勢いで次々と勝利を収めた。日本政府はこの過程で発生した数十万人にのぼる連合軍捕虜を監視するため、朝鮮人青年たち(3012人)を動員した。李鶴来さんが配属されたタイで、日本軍は十分な食糧や医薬品、衣服も支給せず、捕虜たちに過酷な労働を強要した。映画『戦場にかける橋』(1957)で有名になった泰緬鉄道(タイとミャンマーを結ぶ鉄道)を建設する作業だった。

 切り立った絶壁に鉄路を作る難工事が続いたため、多くの捕虜が命を落とした。この過程で捕虜監視員の李鶴来さんは、日本軍工兵隊が要求する労役人数を合わせようとして、オーストラリア軍医官のアーネスト・ダンロップ中佐としばしば衝突した。戦争が終わった後、「戦犯」という恐ろしい烙印を押されたのも、そのためだ。日本が起こした戦争の最末端でこのように“道具”として使われた朝鮮人捕虜監視員129人は、連合軍の戦犯裁判で捕虜虐待の疑いで有罪判決を受けた。このうち14人は、死刑判決を受け、刑場の露と消えた。

 彼は辛うじて減刑されたため死を免れたが、直ちに社会の冷酷な視線と向き合わなければならなかった。祖国は彼らを「親日附逆派」だとして罵倒し、日本は「戦犯」だとして蔑視した。1952年4月、サンフランシスコ平和条約の発効で日本国籍が剥奪されると、日本政府は彼らを援護法や恩給法などの適用対象から除外した。この過程でホ・ヨン(1955年)、ヤン・ウォルソン(1956年)の2人が生活苦の末、自ら命を絶った。

 追い込まれた朝鮮人BC級戦犯70人余りは、1955年4月に自治会である「同進会」を結成し、日本政府を相手に援護と補償を要求し始めた。しかし、1965年6月に韓日協定が締結されると、日本政府は「韓日間の問題はすべて解決済み」として、対話の窓口を閉じてしまった。李会長は「戦犯の時は日本人で、補償する時は朝鮮人と言うのか」と悔しがった。

 李会長と同僚らは法廷闘争に乗り出さざるを得なかった。1991年11月12日、東京地方裁判所に提起した訴訟はおよそ5年間にわたって続いた。1996年9月9日の判決で、裁判所は補償の必要性は認めながらも、「国の立法政策に属する問題」だとして、原告らの訴えを退けた。この基調は、高等裁判所の判決(1998年7月13日)と最高裁判所の判決(1999年12月20日)でも維持された。挫折が続くたびに李会長は「同じ困難にあった仲間は皆亡くなった。一番若かった自分だけが生き残った」として、気を引き締めた。

 かすかに問題解決の兆しが見えたのは、当時野党だった日本の民主党が2008年5月に被害者1人当たり300万円の補償金を支給する法案を作成した後だった。タクシー業で財を成した李会長にとって、重要なのは金銭的な補償ではなかった。予想通り、法案は大多数の議員の無関心のため廃棄となり、与党となった民主党は彼らの苦しみにそれ以上耳を傾けなかった。

故李鶴来同進会会長が2013年11月、ソウル歴史博物館に展示された1951年に撮影されたアウトラム刑務所に拘禁された戦犯たちの写真の前で、自分の顔を指差している=パク・ジョンシク記者//ハンギョレ新聞社

 韓日国交正常化50周年を迎えた2015年4月、日本の国会で会った記者に対し、90歳の李会長は「今年こそは必ずこの問題が解決されることを願っている」と涙声で語った。2017年には『戦犯となった朝鮮人青年』(民族問題研究所発行、原題『韓国人元BC級戦犯の訴え―何のために、誰のために』)の回顧録で、「日本政府は自らの不条理を是正し、立法を促す司法府の見解を真摯に受け止め、立法措置を速やかに講じること」を求めた。彼は昨年2月、東京都西東京市で開かれた講演会に出席し、再び立法を求めたが、コロナ禍などで定期国会に関連法案は提出されなかった。

 そうして韓日関係が最悪の状態にまで悪化し、歳月だけが空しく流れ、彼はついに無念の死を遂げた。

キル・ユンヒョン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr)
https://www.hani.co.kr/arti/society/obituary/988706.html韓国語原文入力:2021-03-29 19:43
訳H.J

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