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父を追い出したその工場で…また「下請」「バイト」奔走する20歳

登録:2019-12-07 04:42 修正:2019-12-10 13:34
[もし韓国の若者が100人だったら](2)重工業都市の20代 

自生的経済力持つ巨済・昌原など 
高賃金で「均質な人生」送るも 
家長が追い出されると若者の人生も分化 
巨済では8年間で若者4千人減少 
昌原では1万4千人減少 
アンケート回答者の半数「ここを離れたい」
南東臨海工業地帯の主な都市の現状=資料:統計庁//ハンギョレ新聞社

 地域や男女比率、学歴や学閥などで分類した満19~23歳の若者100人に会い、深層アンケートとインタビューを行った企画シリーズ「もし韓国の若者が100人だったら」。第1回(関連記事:「韓国の若者100人」会ってみると…「階層移動の可能性高い」と答えたのは6人のみ)では、地方差別と学閥差別に挫折しながらも、それなりの未来を作りつつある「84%」の若者たちの生を描いた。第2回では、地方ながら産業団地があり、大工場の経済的な垣根の中で総じて均等な生活を送ってきた重工業都市の若者たちの人生がどのように分化し、分散していったのかを考えてみた。そして大学に進学しなかった若者たちの人生や考え方はどのようなものか聞いてみた。

蔚山の20代人口の変化//ハンギョレ新聞社

 23歳の大学生ファン・ヒジュ(仮名)はあの日の船の汽笛が忘れられない。2008年のある日、12歳だったファン・ヒジュはワンピースを着て巨大な船の上に立っていた。その日は父が建造にかかわった船が初めて水上に浮かぶ日だった。父は蔚山(ウルサン)の現代重工業で働いていたが、ファン・ヒジュが5歳の時に巨済(コジェ)に移住し、フリーランスの船主監督として独立した。船主監督は、船がきちんと製造されているか検査するのが仕事だ。造船業は活況を呈しており、大宇造船海洋とサムスン重工業が製造拠点を置く巨済は、船主監督にとって「メジャーリーグ」だった。正社員より稼ぎがよかった。進水式は船とホテルで1泊2日にわたって行われた。油まみれの作業服ばかり着ていた父も、その日だけはスーツを身に着け、やはり慣れないスーツを着た仲間たちや外国人の間に囲まれて笑っていた。ファン・ヒジュは進水式の汽笛を鳴らす役を任された。「ブウーン」という船の汽笛の音と、みながファン・ヒジュを眺めながら拍手する音を今もはっきりと覚えている。振り返ってみれば、その日が造船業の好況の絶頂だったとファン・ヒジュは思う。

 絶頂の後には下り坂がある。ファン・ヒジュが高校生の時に不況は訪れた。大宇造船とサムスン重工業が咳き込むと、巨済は体調を崩した。それまでの数年間、大宇造船の粉飾会計や役員の不正、構造調整に関する記事があふれた。サムスン重工業も赤字が続いた。ファン・ヒジュの父親は2017年秋から昨年8月まで仕事が見つからなかった。やっと新しい職を見つけたが、船主監督ではなく、船の部品検査だ。年俸も大幅に減った。ファン・ヒジュは語学留学の夢をあきらめた。ファン・ヒジュの巨済の友人達は、以前と違って国家奨学金の申請に全神経を傾けなければならない。巨済の会社はもう社員の子供に学資を援助していない。

巨済の20代人口の変化//ハンギョレ新聞社

 慶尚北道浦項(ポハン)から慶尚南道巨済を経て全羅南道麗水(ヨス)まで、朝鮮半島南東沿岸を結ぶ南東臨海工業地帯の重工業都市は、1960年代末から韓国の経済成長の原動力だった。尚州(サンジュ)の干し柿や星州(ソンジュ)のマクワウリのように、重工業都市には対になる名前がある。蔚山の現代、麗水のGS、浦項の「浦鉄」がそのような名だとすれば、巨済は大宇造船とサムスン重工業だ。重工業都市の興亡は企業の浮沈によって決まる。不況が訪れると都市は夜が短くなる。大宇造船へと続く道沿いにある玉浦(オクポ)の歓楽街はいつも酒を飲んで食事をする人々でにぎわっていたが、最近は夜8時になると食堂が明かりを消す。空き店舗の幕があちこちに張り出された。「ここの人たちは『大宇造船がある限り、自分が滅びるはずはない』と考えてました。以前は千ウォンなんて犬ですら見ることはなかったそうです。1万ウォンばかり使って歩いてたから。もう多分そんな時代は来ないと思います」。

 重工業都市において、企業は職場であると同時に生活共同体だった。ハンギョレが会った重工業都市の若者22人(深層インタビューした11人含む)は、毎年5月になると父親の職場で開かれる体育大会で遊びまわっていた幼いころの記憶をひとつは持っていた。重工業都市は「超過労働‐高賃金」の職場に勤める父親の稼ぎで家族の生計が維持される伝統的な労働者世帯が多い。父親の働きが家庭経済に絶対的な影響を与えた。2017年の巨済の製造業従事者5万331人のうち91.2%(4万5907人)が男性だった。同じ年、現代自動車の町、蔚山も製造業従事者の88%が男性だった。釜山は、上記2都市より20%ほど低い70.3%だった。重工業都市の家族は、大工場の垣根の中で家父長を中心に、総じて均質な人生を送ってきたのだ。慶南大学のヤン・スンフン教授(社会学)は著書『重工業家族のユートピア』の中で、「多数の産業都市が依然として男性生計扶養者という物質的土台と、それによる家父長的家族モデルを中心に回っている」と分析した。

製造業従事者に占める男性の割合//ハンギョレ新聞社

没落は平等には訪れない

 そのような重工業都市でも、没落は平等には訪れなかった。大宇造船のような大工場の垣根は、まだ社員とその家族を抱えることができる。しかし、その垣根から追い出された父親とその家族は崩れた。崩れる速度は垣根との距離に比例した。ファン・ヒジュより垣根との距離が遠い家父長の娘と息子は、生存のためのリングに直接上がらなければならなかった。24歳の大学生ミン・チャンシク(仮名)がそのケースだ。彼は、家庭の社会経済的地位に点数をつけるとしたら10点満点でいくつかという質問に「3程度」と答えた。昌原(チャンウォン)で建設現場の日雇いとして働いていたミン・チャンシクの父親は、2011年ごろ作業中に腰を痛めた。ミン・チャンシクが高校生だったその時から今まで、父親は病院で寝たきりだ。その後は母親が自営業で生計を支えている。高校を卒業してすぐに携帯電話の工場に就職した当時24の姉が生活費を補てんした。

 ミン・チャンシクは居住費と交通費の少なくて済む大学に入ってから映画館、コンビニ、食堂ホールなどのアルバイトなどを手当たり次第にやった。そして2015年3月に巨済の造船所に足を踏み入れ、8カ月にわたって下請会社所属として働いた。船を作るためには船の各部位を組み立てる機械がまず必要だ。ミン・チャンシクはその機械を支える支柱を溶接して組み立てる仕事をした。「火気」と呼ばれる仕事だ。昌原で朝6時に起き、通勤バスに乗って巨済造船所に出勤し、午後6時まで働いた。残業があれば終わるのは夜の10時。1時間後に家に着くと出勤する服を着て眠りにつき、その服を着たまま出勤バスに乗りに行ったこともある。徹夜の時は、コーヒー自販機のある休憩室の椅子にうずくまって寝た。休みは2週間に1回。そのように働けば1月に300万ウォン(約27万4000円)が手に入った。ミン・チャンシクにとっては大金だった。しかし、大金には代価が付いて回った。

 同じ工場に、同い年なので気になる友人がいた。ある日、彼は主に溶接に使われるアルゴンガスを吸い込んで死んだ。高温に反応しないアルゴンガスは、配管をつなぎ合わせる際に溶接部位が酸化するのを防ぐために使う。「アルゴンガスは重くて、吸い込むと息ができないそうです。その友達は注入役ではなく補助役なんですが、注入する人がミスしたようです」。ミン・チャンシクの隣で働いていたおじさんは指が切断された。ある人は6階から落ちた。ミン・チャンシクも資材を切っていて太ももを切られそうになった記憶がある。「あの時は精神的にとても大変でした。なにしろ危ないという話をたくさん聞いたし、直接見たこともあるし…」。ミン・チャンシクはそうやって稼いだ金のうち、150万ウォンを家に送る。地域からも家からも特別な援助は受けたことのないミン・チャンシクにとって、昌原や巨済のような名にはあまり意味がない。「1回行って稼げる所? それ以上特に考えたことはありません」。

 ハンギョレが出会った若者のうち、ミン・チャンシクと同じ理由で造船所や工場でアルバイトしていたり、働いた経験がある人は数人だった。24歳の大学生チョン・ヨンス(仮名)は垣根の境界に置かれている。父親は昌原産業団地の中堅企業に勤めている。自動車メーカーに軸受を納品する会社で、売り上げが1兆ウォン(約912億円)近くにのぼるほどの安定した企業だ。チョン・ヨンスも幼い頃、会社の体育大会でボールを蹴った記憶がある。しかし、待遇は大企業と違った。景気が悪化し、6年ほど前から会社は父親に週末超過労働を禁止した。月給が何十万ウォンも減った。母は10年あまり前からデパートで布団を販売する仕事をしている。

 チョン・ヨンスは大学に入学して2年間、長期休みには工場でバイトをした。まる1カ月働いたら270万ウォン(約24万6000円))ほど稼げだ。チョン・ヨンスは工場の仕事を「反復」と記憶している。便器を作る会社で働いていた時だった。友達2人とともに5トントラック5台から便器を降ろし、マンション工事現場に積み上げねばならなかった。彼はその退屈でつらい仕事を「若いから」耐えて「ひたすらやった」。昌原の大工場は、彼にとってどのような意味があるか聞いた。「金を一度にどーんと貯められるところ? その程度だと思います」。父親のように生きたいかという質問に、チョン・ヨンスは「いや、公務員になりたい」と答えた。彼は警察の試験に備えている。

昌原の20代人口の変化//ハンギョレ新聞社

 昌原に住む20歳の大学生ヒョン・スヒョン(仮名)は、自分の社会経済的地位を最下層の「2」と答えた。ヒョン・スヒョンの父親は20年にわたり建設会社に通っていたが、昨年仕事中にけがをした。ヒョン・スヒョンはけがをした父親が「定年退職させられた」と表現した。労災処理はされていない。ヒョン・スヒョンは昨年高校を卒業してからアルバイトをした。一週間ずっとしたこともある。彼に人生で最も大切なことは何かと聞くと、「休むこと」という答えが返ってきた。同じ昌原には、ヒョン・スヒョンと違う人々が住んでいる。「父親が地元の会社で少し偉かったら、遊んでいる息子を入れてやったり、そういうケースが多いんです。昌原では、ちょっと名の知れた会社は『採用された人のうち半分はコネ、半分は面接を受けて入った人』という話まであるんです」。

垣根の内と外で分かれる人生

 21歳の大学生ソ・ジンファンの父親は今も韓国GMで正社員として働いている。ソ・ジンファンにとって昌原産業団地は「家族を守る垣根のような空間」だ。「恩恵を受けることが多かった。家族で旅行に行って宿とかを取る時も、産業団地の恩恵がありました。サッカーを見に行ってもチケットが割引になったりしました」。ソ・ジンファンは自分の家庭の社会経済的地位を「8」と答えた。「これまで一度も何かが足りないと思ったことはありません。幼い頃はよく分からなかったんですが、大学の友人や軍隊に行って先輩や後輩を見てよくそう感じました。苦しい生活を送る友達が意外に多くて。このくらいなら幸せに暮らしている方だと思う」。

麗水の20代人口の変化//ハンギョレ新聞社

 父親は週末も仕事に苦しんでいるが、それでもソ・ジンファンは父親のように生きるのも悪くないと思う。将来も幸せに生きていけると思うかという質問に対し、ソ・ジンファンは「父のように頑張らなければ、このくらいにはなれないのではないかと思う」と答えた。彼は、昌原の景気があまり悪いとは思っていない。「地元の風景が大きく変わったところはないように見えます。昌原が過去数十年のように大きく成長しているわけではないけれど、衰退せずによく維持していると思います」。

 やはり21歳のパク・サンジュンの父親も韓国GMの正社員だ。「高校の時、1クラスに30人ぐらいいたとすると、親の半分は昌原工業団地に通っていました。工業団地は一言で言って、『なくてはならないところ』です。ここで暮らしている人たちは、みんな工業団地にある会社に勤めていたんだから」。彼にとっても、昌原産業団地は依然として「垣根」だ。

 同じ重工業都市の中でも、ファン・ヒジュやミン・チャンシク、チョン・ヨンスやヒョン・スヒョンの人生と、ソ・ジンファンとパク・サンジュンの人生は、垣根の内と外に分かれている。そして垣根から追い出された者たちは、重工業都市からも追い出されたり、自ら離れていったりする。ハンギョレのアンケートに応じた重工業都市の若者11人のうち、5人は地元を離れて暮らしたがっており、また同じ人数が他の地域で働き口を手に入れたがっていた。巨済の20代は、2011年の2万9530人から今年11月には2万5265人へと、8年で4千人以上減少した。巨済の全人口に20代が占める割合も、同期間で12.7%から10.2%に落ちた。昌原も同じだ。2011年に昌原の20代は14万9187人だった。しかし今年11月の統計によると、1万4000人あまりが減って13万4442人となった。全人口に占める割合も同期間に13.7%から12.8%に落ちた。

 高校を卒業してすぐに就業現場に飛び込んだ26歳の労働者キム・グヌァンは、造船業の好況の終わり頃に巨済に連れてこられ、大宇造船危機と共に他の地域へと追われた。ソウルの高校を卒業したキム・グヌァンは、21歳の時に大宇造船に職を得た。すでに不況が始まっていた造船所には厳然たる階層が存在した。「1次下請は少し楽な仕事をして、大変な仕事は2次下請に渡します。結局、物量は2次下請がこなすんです」。

 崩れる時も、大変な仕事をする弱いところから崩れた。「大宇造船事態が発生した時、いちばん先に倒れたのが3次下請、その次が2次下請で、1次下請はまだ生き残っています」。彼は、大宇造船が危機を迎えた2015年に、製造業の工場都市である京畿道安山(アンサン)に移住し、半導体工場に転職した。しかし、ここも「ベトナムに多くの工場が移転してしまい、不良が大量発生したため」不況が訪れた。最近父親になったキム ・グヌァンは、巨済から安山に移住したように、再び移住先を探さなければならないかもしれない。

 不況の中の重工業都市は、垣根の中の一部だけを残し、若者らを垣根の外の下請けや町の外へと追いやっている。それでも重工業都市の若者たちは今日を生き抜いている。ヘッドギアやグローブといった保護装具ひとつなく、代わりに「バイト」や「下請け」といった名を身に着けて。

ソ・ヘミ、キム・ユンジュ、カン・ジェグ、キム・ヘユン記者

(お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/919839.html韓国語原文入力:2019-12-06 05:00
訳D.K

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