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天皇を民間法廷に立たせてから19年…「慰安婦は就職詐欺であり、国家性犯罪」

登録:2019-10-23 02:32 修正:2019-10-23 07:26
中原道子・早稲田大学名誉教授 訪韓インタビュー

朝日新聞の松井やよりとともに 
国際女性法廷で世紀の判決引き出す 
12カ国の女性犠牲者慰霊碑建てる 
韓日超えた戦時性犯罪の普遍性強調 

「日本に騙されて連れてこられた朝鮮半島の女性たち 
被害者の同意なき国家首脳間の合意 
解決でも何でもないと思う」

2000年に東京で開かれた「女性国際法廷」を主導した中原道子早稲田大学名誉教授が21日午後、ソウル中区義州路のホテルでハンギョレとのインタビューに応じている=キム・ミョンジン記者//ハンギョレ新聞社

 「植民地支配を受けた韓国人が慰安婦問題を民族問題として受け取るのも当然だと思います。しかし、これは女性と戦争の問題です」。

 韓国人にとって日本軍「慰安婦」問題とは、日帝の残酷な36年の植民統治の苦痛を告発する代表的な「歴史的象徴」だ。しかし、日本で長い間慰安婦問題を研究しながら現実に関わってきた女性運動家である早稲田大学の中原道子名誉教授(「戦争と女性への暴力」リサーチアクションセンター共同代表)が強調するのは「戦時における女性に対する犯罪」という慰安婦問題の普遍性だ。中原さんは、東北アジア歴史財団の招きで22日に開かれた「2000年女性国際法廷」19周年記念コンサートに参加するため21日に訪韓し、ハンギョレのインタビューに応じた。

 「私はもともとマレーシア史を研究する学者です。1990年代に日本で慰安婦問題の集会を開いたのですが、マレーシアの記者に集会を取材してみろと勧めたんです。その記事がちょうど現地の新聞の1面に掲載されて、マレーシアでも慰安婦問題に関心を持つようになります。そんな中でロザリン・ソウという被害者を支援しつつ、慰安婦問題に関わるようになりました。おばあさんに会ってお茶を飲み、食事をして親しくなった後、私の『おばあさん』になってほしいと言いました。それが私と慰安婦問題の始まりです」。

中原道子早稲田大学名誉教授。中原さんとその仲間たちは、2000年に慰安婦問題を扱う民間法廷を準備し、深刻な脅迫に苦しめられたという=キム・ミョンジン記者//ハンギョレ新聞社

 その後、中原教授は日本の著名なジャーナリストであり女性運動家だった朝日新聞記者の松井やより氏(1934~2002)とともに世紀の裁判に乗り出すことになる。2000年12月8日から3日間にわたって開かれた「女性国際法廷」という名の民間法廷だった。中原さんは「当時、私たちは慰安婦問題に非常に大きな衝撃を受けて、これを他の日本人たちに知ってもらったり伝えたりすることだけに集中していたのですが、松井さんは違った」と言う。「急に松井さんが『慰安婦問題は女性に対する国と日本軍の犯罪』と言って、これを(確認する)裁判をしようと言ったんです。私たちはそのような裁判が可能なのか、非常に恐ろしかったのですが、とにかく始めたんです。松井さんは今考えてもすごい人です」。

 中原さんらは裁判の実務準備に向け1998年6月に「戦争と女性への暴力日本ネットワーク(VAWW-NET Japan)」を立ち上げた。しかし心配事が多すぎた。最大の恐怖は、戦争の最高責任者であり軍の統帥権者だった裕仁天皇を法廷に立たせるということだった。裁判を主導した松井氏らに右翼の脅迫状が大量に届きはじめた。結局、万一の事態に備えてしばらく安全な場所に身を隠さなければならなかった。

 さらに、アジア各国に散らばっている被害者たちを東京に呼び寄せるには、莫大な費用と根気が必要だった。「計64人の被害者を証人として法廷に呼びました。おばあさんたちの大半が高齢だったので、家族や運動家たちが少なくとも2人ほど張り付いていなければなりませんでした。航空費や滞在費、通訳・翻訳費なども必要でした。途中で「私の退職金をつぎ込むべきか」とも考えましたが、日本のある高齢女性が「天皇の罪を問うべきだ」と言って大金を寄付してくれたんです」。

 この民間法廷では慰安婦制度に責任のある天皇などの9人に有罪判決を下した。慰安婦制度がナチ時代のユダヤ人に対するホロコーストに匹敵する「人道主義に対する犯罪」であることを明白に宣言した世紀の判決だった。

 その後、中原さんにはさらなる転機が訪れる。早稲田大学博士課程の教え子、ホン・ユンシンさん(『沖縄戦場の記憶と「慰安所」』著者)が沖縄の慰安所の調査研究のために宮古島を訪れ、重要な証言を採取したからだ。島の住民の与那覇博敏さんは、12歳の時に島で肌の白い朝鮮の女性たちが水をくんだり洗濯をしたりしに井戸に立ち寄り、しばらく休んでいた場所を覚えているとホンさんに話した。とつぜん島にやって来て戦争後に消えていたお姉さんたちはいったい誰なのかといぶかしく思っていた与那覇さんはその後、彼女たちが慰安婦であったという事実を知る。その後の調査の結果、宮古島だけで計17カ所もの慰安所があったことが確認される。

中原道子早稲田大学名誉教授が21日午後、ソウル中区義州路のホテルでハンギョレのインタビューに応じている=キム・ミョンジン記者//ハンギョレ新聞社

 この場所に慰安婦女性たちを記憶する碑を建てたいという与那覇さんの話を聞いたホンさんは、韓国女性運動の「大母」ユン・ジョンオク氏(94)と中原さんにこのことを伝えた。中原さんの主導で市民募金が行われ、2008年9月7日に碑を建てることができた。中原さんは、慰安婦犠牲者になった12カ国の女性たちを全て記憶するため、12カ国の言語で碑を刻んだ。碑の名は「女たちへ」だ。

 中原さんは、慰安婦問題が日本政府と軍が犯した「国家犯罪」であることを否定しようとする韓日両国の社会の雰囲気にも警鐘を鳴らした。「九州大学医学部を卒業した産婦人科医の麻生徹男(1910~1989)という医者が1937年11月に軍に召集されます。『私は婦人科の医者なのになぜ召集するのか』と疑問に思った彼が上海に着いてみると、慰安所がありました」。麻生は軍からそこにいた100人あまりの女性の身体検査をしろとの命令を受ける。その後、日記に「日本人慰安婦は売春経験のある者たちだったが、朝鮮半島出身の女性たちは性経験すらないように見える者もいる」と記した。中原さんは「(朝鮮半島出身の女性は)いい仕事があるとだまされて連れてこられたのです。これは詐欺です。性経験のない女性がどうして慰安婦になるために来ますか」と述べる。中原さんは韓日両国政府による2015年の12・28合意についても、「被害者たちの同意なしに国の首脳同士が交した合意など、解決でも何でもないと思う」という原則を再確認した。

キル・ユンヒョン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/society/rights/914181.html韓国語原文入力:2019-10-22 18:04
訳D.K

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