「ハブ・ア・グッド・トリップ・イン・ブダペスト!」(ブダペストで楽しい旅を!)
5月30日、カタール・ドーハを経てハンガリー・ブダペストに向かうカタール航空機内。笑みを浮かべた乗務員が通路を行き来しながら挨拶した。乗客は思い思いの様子だった。ある人はヘッドホンをつけ映画を観ており、またある人は機内食のメニューをめくっていた。浮き立った旅行の雰囲気にそぐわず、何もせずにぼんやりした表情で飛行機の床ばかり見つめたり、隣に座った人を抱きしめて互いに肩をそっと叩きあう人たちもいた。ハンガリー遊覧船事故の後、事故現場に向かった約10人の被害者の家族たちだった。
ブダペストの6月の夏は、世界中から最も多く観光客が押し寄せるシーズンだ。前日の29日、ドナウ川の遊覧船ハブレア二号に乗っていた人たちも、その輝く夏を満喫するためにここを訪ね、旅行の必須コースというブダペストの夜景を見るために遊覧船に乗った。
彼らが水に沈んだ事故現場は、キム・エランの小説のタイトルのように「外は夏」だった。被害者と家族はスノーボールの中に閉じ込められた存在のようだった。ボールの外では温かい日差しと涼しい風を満喫していたが、透明な球体のボールの中では白く冷たい雪が降っていた。外は夏なのに、中は冬。旅行客はきらめく川を背景に愛をささやき、思い出に残す写真を撮っていたが、家族たちは橋の下の陰で家族を思い出しながら泣いていた。誰かがのどかに水切りをして遊ぶ川は、数日前に28人を飲み込んだ沼でもあった。
行方不明者のLさん(28)の父親は、ブダペストで一番高いホテルの一つに泊まっていた。旅行代理店が手配した宿泊所だった。きらめくシャンデリアが下がった素敵なホテルのロビーで、父親は世界で一番やつれた顔をしていた。彼は「死んだ」という表現を使わなかった。嗚咽もしなかった。ただ、私の子どもが水の中に「いる」と言った。「私の子があの中にいるから…引き揚げて早く会いたい」
ブリーフィングでは政府関係者が被害者の家族を「遺族」と表現し、急いで「家族」と改めた。行方不明者の捜索について「遺体を探す」と表現しないのも、現場の暗黙の約束だ。夏から疎外され、冬に閉じ込められた彼らのための最低限の配慮だった。
家族を真冬に追いやる人たちもいた。政府合同迅速対応チーム長がメディアブリーフィングで家族が泊まっているホテルを公開すると、取材陣はわっとホテルに向かった。その中には記者もいた。互いに「取材しましたか?」と聞きながら様子をうかがっていた記者たちは、ロビーに家族が一人二人出てくると話しかけ始めた。
「すみません、お伺いしたいことがあるんですが」「失礼でなければ…」
私たちはすでにそれ自体で人に対する礼儀を失っていた。記者らが投げた質問に対し、ある男性はまばたきばかりしながら記者らを見つめ、ゆっくりと口を開いた。「何も言うことはありません…」
またある女性はソファーにあごを乗せたまま、鋭い声で切り返した。「何が聞きたいんですか?」
瞬間、頭が、全身が硬直した。私たちは一体何を聞きたかったのだろうか。
次に、家族たちがブダペストのある大学病院の遺体安置所を訪れ、遺体を確認するという話が伝えられた。取材陣は再び駆けつけた。その中のある記者は死亡者の家族であるかのように装って遺体安置所に近づいたと、迅速対応チーム長は伝えた。取材陣の間では「それはどこのメディアだ?」という質問が出たが、大半の記者の顔には「私はそこまではしない」という安堵がにじみ出ていた。家族たちはカウンセリングで「個人情報流出とマスコミの過度な取材」をトラウマの主な要因に挙げた。
船体が引き揚げられ収拾される遺体が一体ずつ増えれば、人々の関心はだんだん薄くなり、そのうち取材陣と政府側関係者も7時間の時差を超えて一人また一人と韓国に戻るだろう。そのように「夏のさなかで冬を過ごす人々」に関する記憶もすみやかに消えていくだろう。だが、家族の一部はまだブダペストのマルギット橋をうろついているはずだ。ボールの外は完全な夏、しかし、いまだにボールの中で白い雪に覆われている人たち。家族と外の世界を分かつ「季節の壁」は、狭められるのだろうか。