40年余り前の大阪市の片隅には、私たちの知らないかつての「私たち」がいた。
伐採した木で埋まった狭い河川の平野川の風景、済州(チェジュ)の海女出身の移住民たちが獲った海産物を売っていた生野の朝鮮市場が視線に入ってくる。その市場の路地裏には「ケジャングク(犬肉の鍋物)」と鮮明に記した路地食堂の看板があり、上半身裸の朝鮮人の男がその前を歩いている。さらに裏側には頬のふっくらした朝鮮の子どもたちがビー玉遊びをし、おばあさん・おばさんたちはどこかに出かけようとしているのかチマチョゴリを着ていた。
今月15日からソウル江南(カンナム)駅近くの写真空間「スペース22」に設けられた、在日朝鮮人写真家の故・曺智鉉(チョ・ジヒョン、1938~2016)の回顧展は、1970年代の日本の朝鮮人村の姿を、現在この地の観客の前に移して見せた。タイトルの「猪飼野ー日本の中の小さな済州」は、済州出身の写真家が1948年に密航して移住した後、幼年期と成長期を過ごした大阪の朝鮮人村の名前であり、彼が静かに淡々と撮った写真の背景でもある。
猪飼野は6~7世紀、百済人の祖先が近くの難波の浦に移住し、百済港を作り定着したことから、初めて縁を結んだと伝えられている。日帝強制占領期(日本の植民地時代)の1920年代、堤防工事のために朝鮮人が動員され村を形成したことを機に、大規模な「朝鮮人村」が作られた。今でも日本国内の在日コリアンの最大密集地域だが、「豚を飼う所」という意味の地名である「猪飼野」は1973年に突然姿を消した。この地名がつくと地価、住宅価格が下がり、縁談にも良くない影響を与えるなどという理由で周囲の日本人住民が強力な苦情を入れ、名前を消してしまったという噂が伝わってくる。
今や生野コリアタウンとなり、韓流に熱狂した日本の若者や観光客が押し寄せる場所になったが、写真家の曺智鉉が捕らえた1960年代の猪飼野の風景は親しみがあり懐かしくも、寂しく殺伐としている。市場や住宅街、路地が醸し出す在日朝鮮人の暮らしは、厳しい苦しさの残影を落としているのだが、彼らの頭上を横切る目には見えない南北分断線を捉えた。分断の対立は、当時、民団(在日本大韓民国居留民団=当時名称)と総聯(在日本朝鮮人総聯合会)との間で鋭く対立する争点だった永住権の申請をめぐって現れる。永住権の申請は死を申請することだとし、韓国籍を朝鮮籍に変えろと扇動する総聯の横断幕と、嘘の宣伝に騙されず早く永住権の申請をしようという民団の横断幕が別途に掲げられ対立する。しかし、作家の視線は横断幕の殺伐とした気配を超えて、彼らがどうしようもなく乗り越えなければならない暮らしの風景に集約される。壁と窓枠の間にすき間のある古びた長屋で写真家を眺めるおばあさん、伐木材が溜まった川で櫓を漕ぐ人々の辛そうな動き、古紙を拾って集める年寄りの歪んだ表情、サンダルの底を外したごみの山を通る生徒たち、川の汚物をリヤカーに乗せていく掃除夫の姿は、かの時代日本で差別と生計の足かせにうめいていた朝鮮人の素顔だ。有名な在日朝鮮人の詩人の金時鐘が「猪飼野詩集」の巻頭に掲載した詩『見えない町』は、曺智鉉の作品に対する最も的確な説明と言える。「なくても ある町/そのままのままで/なくなっている町/…みんなが知っていて/地図になく/…日本でないから/消えててもよく/どうでもいいから/気ままなものよ
曺智鉉は大学時代、文化遺産の写真の巨匠として有名な土門拳の鉱山村写真集を耽読し、ドキュメンタリー写真家の道へと踏み出した。自身の胎盤とも言うべき生野をはじめ、日本で差別された部落民の生活をとらえたルポルタージュで名声を得て、写真集「部落」(1975)と「猪飼野」(2003)を出版している。2016年に持病で亡くなったが、映画『ダイビング・ベル』や日本軍「慰安婦」被害者のドキュメンタリー作業を行ってきた写真家の安海龍(アン・ヘリョン)氏が、かつての縁を生かし彼の古いフィルムを展示することになった。企画者の安氏は「『猪飼野』の写真には同胞たちの暮らしとつながる絶対的貧困の世界がある」とし、「現実とぶつかりながら描いた抵抗精神の発現といえる彼の写真を通じて、朝鮮民族の移住史の一つの歴史を読むことができる」と語った。3月5日まで。82-2-3469-0822。