
春の象徴のような桜祭りを目前に控えた3日午後。太陽が雲に隠れるとまだ肌寒いなか、黒い軽量ダウンジャケットに白い帽子をかぶった初老の男性一人が、ソウル登村洞(トゥンチョンドン)の3階建てビルの屋上に姿を現した。ビルの前に集まった数十人を見下ろした彼は、ダウンジャケットの上に「リストラ13年、パク・ヨンホが解決せよ」と書かれたチョッキを羽織っていた。彼の名前はキム・ギョンボン。1959年4月3日生まれ、ちょうどこの日還暦を迎えた彼のまたの名は「大韓民国で最長期の闘争事業所コルテックの解雇労働者」だ。
“正常に”会社に通っていたなら、キム氏は今年定年を迎えたはずだ。しかし、彼が定年の代わりに迎えたのは「屋上座り込み」だった。一日前の2日午後、パク・ヨンホ・コルテック社長に今までより進展した案で直接交渉に乗り出すよう要求するために、イ・イングン金属労組コルテック支会長などとともに会社の中に入った。昨年末から二カ月以上、進みそうで進まないまま8回続いた労使交渉が成果なしで終わると、キム氏など13年間復職闘争を続けている解雇労働者3人は、先月9日から座りこみの場所を光化門(クァンファムン)から登村洞のコルテック本社前に移した。
三日後の12日からは、彼らのうちの一人のイム・ジェチュン氏がハンガーストライキに突入した。彼らが望むのは、リストラに対する謝罪▽定年になる前に名誉復職▽解雇期間の補償だ。そうしてハンストから20日余りがたっても会社側は何の反応も見せず、ついにキム氏などが屋上座り込みにまで乗り出すことになった。
2007年、7年働いた会社が突然外国に移転してリストラされ、13年間を路上で送るようになり、還暦の誕生日を冷たい風の吹く屋上で迎えることになるとは、誰が予想しただろうか。「『世界に通ずるギターを作って名誉を得る』というパク・ヨンホ社長の言葉に、自分も名器ギターを作ろうという自負心を感じたが、労組を作ったからといって一夜にして解雇されたことがあまりにも悔しかった。最初は自分の悔しさを晴らすために復職闘争をはじめたが、時間が経つにつれほかの事業所の問題も知り、これが自分個人の問題ではなく社会問題だということに気づいた。必ず解決しなければならないという義務感と責任感も感じるようになった。しかも、コルテックのリストラは高裁で『当時、経営上の困難はなかった』と判決されたにもかかわらず最高裁で覆されたが、それがヤン・スンテ最高裁判所の司法壟断であるという事実が明るみになったではないか」。携帯電話を通じて伝わるキム・ギョンボンさんの声は淡々としていた。
この日、「コルテック闘争の勝利のための共同対策委」は会社の前で素朴な還暦パーティを開いた。統一運動家ペク・ギワン氏の手書きの手紙を入れた額縁、ムン・ジョンヒョン神父の刻書、長い間彼と同僚たちの写真を撮ってきた写真家のノ・スンテク、チョン・テギョン氏の写真アルバムなどをプレゼントし、公演と写真展のようなイベントも準備した。しかし、主役のキム氏は祝いの席に座れないまま、屋上から眺めるしかなかった。ロープで屋上に伝えられたぬくもりは、ノ・スンテク氏などの写真アルバムと衣類2着だけだった。彼は「とてもありがたく、大切なプレゼントをもらっていたたまれない。これを受け取るほどに、私に何ができたのかを省みる」と話した。
リストラ当時、小学校5年生だった末の息子は軍隊を除隊し、今春大学3年生に復学した。これまで復職の道を求めて大田(テジョン)、仁川(インチョン)、ソウルを渡り歩いた彼は、子どもが青年に育つ姿をちゃんと見届けられなかった。次女が大学に入学した年には入学金を用意するのも難しく、大学生だった長女が休学し、社会に出るのもそれだけ遅れた。そのように父親として「子どもたちにちゃんとしてやれなかったこと」が彼にはつらい。「あなたがやることだから放っておくが、家では話さないで」という妻は実のところ、不満を言う子どもたちに「これは母さんと父さんの問題だから、何も言わないで」となだめてくれたありがたい存在だ。
7日は愛する家族と彼が一緒に誕生日のお祝いをしようと約束した日だ。その日、キム氏は家族と一緒にあたたかい食卓について「もう終わった。これまで本当にご苦労さま」と言えるだろうか。彼はこう言った。「社長が進展した案で直接交渉すると約束しなければ下りることはできない。名誉というものは事業をする人にだけあるものではない。この会社に所属して働いていた私たちにも名誉はあり、ひと月でもふた月でも復職してこそ、それを守ることができるのではないか」
これと関連し、コルテック側はハンギョレとの通話で「労組に関連する問題を担当する常務が今インドネシアに出張中なので話せる内容はない」と説明した。