「子どもたちよ、息子よ、娘よ。もう行こう。お母さんお父さんの胸に抱かれて、しばらく家に帰ろう。ここでハンガーストライキをし、剃髪をし、涙と叫びで一日一日を過ごしたお母さんお父さんらのせいで苦労したね。家に帰ってきれいに整えて、また来よう。私たちを守ってくれた皆さんに丁寧に挨拶して、家に帰ろう」
17日午前9時50分、ソウル中区(チュング)の光化門(クァンファムン)広場。チャン・フン家族協議会委員長の鎮魂の辞を最後に、犠牲者の遺影を移す移運式(仏具などを他の場所に移す儀式)が始まった。「クラス別に名前を呼びます。2年1組…」。犠牲になった生徒たちの名前が1人2人と呼ばれはじめた。子どもの名前を呼ばれると、親が焼香所の前に歩いてきた。広場は声のない涙に包まれた。人々は口を塞ぎ、うつむいて、涙を流した。
遺族と市民300人余りが焼香所を埋め尽くした。移運式は黙祷、宗教儀式、鎮魂式の順序で構成されてた。1797日間広場にいた子どもたちの遺影が両親の手に渡った。黒いスーツを着た彼らが白いハンカチで遺影をきれいに拭いた。拭かれた遺影は犠牲者の名前が書かれた箱に丁寧に収められた。遺影を受け取る親たちの手が、細かく震えた。
移運式を控え、16日から内部整理が始まったというが、広場にはこれまで遺族が闘った跡が以前として残っていた。「セウォル号真相究明責任者処罰」「国民の力で真相究明」といった文言が目立った。この日の移運式をはじめ、ソウル光化門広場に設置されたセウォル号のテントは18日までに全て撤去される。2014年7月に初めて設置されて以来、4年8カ月ぶりのことだ。セウォル号の遺族が直接テント撤去の意思を明らかにした。18日までにセウォル号テント14棟がすべて撤去されれば、光化門広場には「記憶・安全展示空間」が設けられる。セウォル号のテント14棟の大きさの半分ぐらいの面積の79.98平方メートル規模の木造建築で、展示スペースは2つの展示室と市民参加空間、真実に向き合う台(署名台)などで構成され、来月12日に市民に公開される予定だ。
光化門広場に集まった移運式の参加者たちは、セウォル号テント撤去が「終わりではなく新しい始まり」だと口をそろえた。この日、司会を務めた葬儀会社「ヒョンジンシニング」のソ・ヨンソン本部長は、移運式の開始を告げながら「この場は単に犠牲になった方たちを思い出す場ではない」と言い、「最後まで真実を突き止め、これから、また始めるという誓いの場」だと話した。ソ本部長は「もう二度とこのようなことが繰り返されないように、セウォル号以前と以後は変わるよう必ず責任者を処罰し、他の子どもたちが生きていく私たちの未来は今とは変わらなければならない」と付け加えた。
宗教者らも家族を慰め、真相究明を強調した。ミョンジン僧侶は「子どもたちは空の星になり、闇は光に勝つことはできず、偽りは真実に勝つことはできないことを教えてくれた」とし、「今日は子どもたちと一緒にこの広場で泣いたすべての日、夢見て希望を抱いたすべてを、心に込めて記憶する日」と話した。ホン・ヨハン牧師は「依然として真実は隠蔽されており、表われるのを待っている」とし、「泣く者たちと一緒に泣くこと、彼らの苦痛を私たちの苦痛と思うこと、聖書はそれを愛と言う」と強調した。ソ・ヒョンソク神父も「セウォル号惨事の真相究明のため、最後まで共にするという連帯の意思を誓う」と明らかにした。
4・16連帯のパク・レグン共同代表は「日照りの下で遺族がハンガーストライキをし座り込みを始めた姿が思い出される」と言い、「1周忌追悼祭をした後、焼香所に花1本を捧げたいという遺族たちが、警察の車の壁によって残忍に阻まれた」と振り返った。パク代表は、セウォル号テントが持つ意味も強調した。パク代表は「数多くの人々の力が集まってここを守った」とし、「ここはろうそく革命の発祥地であり、中心地だった」と強調した。パク代表は「ステラ・デイジー号の家族、キム・ヨンギュンさんの家族など痛みを抱える人々がここに集まり、苦しみを分かち合いながら元気をもらって、また闘った」とし、「ここを守るために共にした名もない多くの人々を忘れない」と述べた。
クラス別に生徒たちの名前が一人ずつ呼ばれた後、犠牲となった教師や一般人の名前が呼ばれた。遺族は、教師や一般犠牲者の遺影を慎重に受け取り、儀式を行った。焼香所にあった約300個の遺影は、ソウル市庁新庁舎にある地下書庫に臨時保管される。遺族は、まだ遺影をどこに移すかまだ決めていない。
遺族は真相究明のための市民の記憶と関心を呼びかけた。檀園高校2年8組のアン・ジュヒョンさんの母キム・ジョンヘさんは「これまでも多くの方々が訪れてくださったが、よりきちんとした空間が設けられるので、より多くの方々が来て、一緒に覚えていてほしい」とし、「真相究明に向けた努力にも引き続き共にしてほしい」と話した。