1日午前10時8分、ソウル鍾路区(チョンノグ)の旧駐韓日本大使館前。日本軍「慰安婦」被害者を描いた映画「アイ・キャン・スピーク」の実際のモデル、イ・ヨンスさんが黒い霊柩車から降り、何かに引かれるように平和の少女像へと歩いていった。氷点下7度の天候で凍りついた少女像の“青銅の手”をしっかりとつかんだイさんは、決心したように口を開いた。
「私たちには何の罪もありません。15、16歳の幼い頃、爆弾が降り注ぐところで生き延びました。そのときは朝鮮でした。今は大韓民国です。それなのに未だに罪もない私たちに妄言ばかり発している大韓民国…とても悲しくて残念です」
約20分後に始まる日本軍性奴隷制(慰安婦)被害者のキム・ボクトンさんの告別式を控え、イさんは大韓民国政府に対する恨みを吐き出した。
先月28日、ついに日本政府の謝罪を受けられずこの世を去った、93歳の平和運動家キム・ボクトンさんの告別式がこの日午前、厳かに行われた。
この日午前8時30分から行われた路祭(路上で行われる葬儀)は、市民約1000人(主催側推算)が参加した中、ソウル広場を出発して世宗大路を通り、27年間水曜集会が開かれた旧駐韓日本大使館前まで行進して行なわれた。
路祭に参加した市民は「日本軍性奴隷の真相究明」、「私のような犠牲者が二度とないように」などの文句が書かれた94個の挽章(故人を称える文句を書いた布や紙)と、500個余りの蝶をかたどったシンボルを掲げ、1.4キロの追悼行列を続けた。
午前9時45分頃、日本大使館が入居しているツインツリータワーの前に立ち止まった追悼客たちは「日本は公式に謝罪せよ」「法的賠償を履行しろ」などのスローガンを叫び、日本軍「慰安婦」問題に対する日本政府の公式謝罪と法的賠償を求めた。
この日の告別式で、生前キムさんの健康の世話をした延世大学医療院労働組合のクォン・ミギョン委員長は「キムさんは慰安婦時代、軍病院で看護婦になりすまして働いた記憶のため、病院に行くのをとてもつらがっていた」と話し、「そんなキムさんが、お見舞いに来た大統領に『日本から謝罪を受けられるようにしてほしい』と話すために、あれほど拒否していた鎮痛剤を処方してくれと頼んだことが忘れられない」と涙を流した。
キムさんの喪主を務めた正義記憶連帯のユン・ミヒャン理事長は「キム・ボクトンさんの生涯を通じて平和と人権が何なのか、傷ついた人を一緒に抱きしめるということが何なのかを見て、学ぶことができた。心から感謝したい」と所懷を述べた。
この日、母親と一緒にキムさんの告別式に参加した中学生Hさん(15)は「今年私の年齢は、キムハルモニ(おばあさん)が『慰安婦』として連れて行かれたときの年と同じになるが、ハルモニがどんな思いだったのか想像がつかない」と言い、「今日、キムハルモニの告別式に参加して少しでも変わるものがあればという気持ちで参加した」と話した。
これに先立ち、この日キムさんの遺体安置所が設けられていたソウル西大門区新村(シンチョン)のセブランス病院の葬儀場は、早朝からキムさんの出棺を見送るために100人余りの追悼客が訪れた。
出棺が予定されていた午前6時30分頃、マリモンドのユン・ホンジョ代表が淡々とした表情でキムさんの遺影と位牌を手に安置所を出、正義記憶連帯のユン・ミヒャン理事長、イ・ヨンスさんらがその後に続いた。出棺場でキムさんの棺を霊柩車に運ぶ前、ユン理事長はキムさんの棺の上にマジックで「ひらひらと飛んで行き、平和な世界でいつまでもお幸せに」と最後の手紙を書いた。
続いて霊柩車はキムさんが生前暮らしたソウル麻浦区延南洞(ヨンナムドン)の「平和のわが家」に向かった。キムさんと一緒に「平和のわが家」で過ごした相棒のキル・ウォンオクさんは、遺影を両手で撫でながら慈愛に満ちた表情で「何でこんなに早く行ってしまったの。こんなに早く行かなくていいのに…先に良いところに行ってゆっくりしてください。私も後から行くよ」と語った。
路祭が終わった11時30分頃に墓地へと発ったキムさんは、忠清南道天安(チョナン)の国立望郷の丘に安置される。ここはキムさんより先に亡くなった51人の日本軍「慰安婦」被害者たちが永眠している所だ。