1926年生まれのキム・ボクトン。慶尚南道梁山(ヤンサン)で生まれた。小学校4年生を終えて、15歳になるまで家事を手伝いながら過ごした。「危ないから、出歩かない方がいい」という母親の言いつけを守っていた。1941年の春なのか秋なのか思い出せないが、ある日、階級章のない黄色い服を着た日本人たちが、町の区長と班長を引き連れて家にやって来た。「軍服を作る工場で3年だけ働けばいい」。15歳のキム・ボクトンが行かなければ、家族を追放し、財産も奪うと言われた。工場に行ってまさか死ぬようなことはなかろう。「母さん、私が行くよ」。15歳のキム・ボクトンは、その足で台湾を経て中国広東のある部隊まで行った。あの時ついていかなければ、93歳のキム・ボクトンの人生は少し違っていたのだろうか。
日本軍性奴隷制(慰安婦)の被害者であり、平和活動家のキム・ボクトンさんが28日夜10時41分、日本政府の謝罪を受けられないまま他界した。享年93歳。
「私は一生、(恋慕の)情を抱いたことがない」。15歳のキム・ボクトンは、土曜日は昼の12時から午後5時まで、12時から午後5時まで、日曜日は朝8時から午後5時まで、平日は週末に来られなかった兵士たちまで相手しなければならなかった。広東を経て、香港やマレーシア、スマトラ、インドネシア、ジャワ、バンコク、シンガポールまで、行先も分からず、トラックに乗せられていた8年間、日本軍の性奴隷として生きた。
1992年、66歳の生存者キム・ボクトンが政府に慰安婦被害届を出すまで、家族や親戚、知人の誰も、彼女が慰安婦として各地を転々としていたことを知らなかった。解放後、やっと生きて帰ってきた23歳のキム・ボクトンから、想像もできないことを聞いた母親は、誰にも明かせない苦しみを胸の奥にしまい込んだ末に、心臓病でこの世を去った。
解放以来1992年のその日まで、子どもも、夫もなく、釜山で商売をしながら一人で生きてきた。「稼いだお金で、経済的に苦しい人を助けられた時」は嬉しかった。しかし、「慰安婦」の被害を証言し、顔が知られてからは、隣人とも関係が疎遠になった。
「何度同じことを繰り返し言っても、口が酸っぱくなるほど語っても、テレビでも新聞でも、その話は一体どこに消えたのか、出るのは一言二言だけで、ただ『キム・ボクトン慰安婦』『慰安婦のキム・ボクトンハルモニ(おばあさん)』…(私が)慰安婦だと宣伝していることにしかならない。そうでしょう?」。“生存者”キム・ボクトンはわざと不満をぶつけてみせたが、その不満は無念の死を遂げたり、匿名で生きていくしかない性奴隷制の被害者たちの勇気を象徴するものだった。
66歳で始めた日本軍「慰安婦」被害証言は、“生存者”キム・ボクトンを平和運動に導いた。キム・ボクトンは国連や米国、日本、フランスなど世界各地を回りながら、日本軍性奴隷問題に対する関心を促した。「戦争のない世界」を叫んだ。自分のような戦時性暴力被害者が二度と生まれないことを望む切実さが、66歳のキム・ボクトンを突き動かした。コンゴやウガンダなど世界各地の武力紛争地域で行われている性暴力問題を解決してほしいという“生存者”キム・ボクトンの訴えは、国際社会を震わせた。
「私も日本軍『慰安婦』被害者ですが、それで今も毎週水曜日になると、日本大使館の前に立って、私たちの名誉と人権を回復するため闘い続けているが、いま世界各地で私たちのように戦時性暴力被害を受けている女性たちが、どれほど苦しんでいるか、私はよく知っています。だからこそ、その女性たちを助けたいです」(2012年3月8日「世界女性の日」を迎えて行われたナビ(蝶)基金設立記者会見で)
2015年、89歳のとき“生存者”キム・ボクトンは紛争地域の被害児童支援と平和活動家の養成に使ってほしいとして、こつこつ貯めてきた5000万ウォン(約490万円)を「ナビ基金」に寄付した。ナビ基金はこの資金で「キム・ボクトン奨学基金」を設立した。同年、平和活動家キム・ボクトンは国際言論団体が選んだ「自由のために戦う英雄」に、南アフリカ共和国初の黒人大統領ネルソン・マンデラや米国の黒人人権運動家マーティン・ルーサー・キング牧師らと共に、名を連ねた。
「団結しなければならない。団結して日本に勝たなければならない。第2次大戦当時、若い青年たちの名前を全部日本名に変えて、完全な日本人にして…そうやって連れて行って犠牲になったわが民族が、今もその国で苦しめられているということを聞いて、情けなくて言葉では言い表せなかった…朝鮮学校には朝鮮人が協力しなければ、誰が協力をするの?一人でも多く立派な朝鮮人を育てたい」(総連系日刊紙「朝鮮新報」2019年1月17日付、生前最後のインタビューで)
平和運動家キム・ボクトンにとっては、在日コリアンも他人ではなかった。幼くして日本軍に連れて行かれ、学校教育をまともに受けられなかったためか、日本政府の支援を受けることができない在日朝鮮学校を特に不憫に思っていた。2016年から在日朝鮮学校の学生6人に奨学金を支援したキム・ボクトンは昨年11月22日、新村(シンチョン)セブランス病室で病魔と闘っている最中にも、在日朝鮮学校の生徒たちの奨学金に使ってほしいとして、3000万ウォン(約290万円)を寄付した。昨年、公益社団法人チョン(理事長キム・ジェホン、キム・ヨンギュン)は「日本軍『慰安婦』被害者として、苦しみを抱えながらも、ほとんど全財産を後れた教育のために寄付し、平和と統一の信念と韓日の歴史問題に対する正しい歴史観を広めた」92歳のキム・ボクトンを「正しい義人賞」の初受賞者に選んだ。
「私たちは大きな謝罪を求めているわけではない。自分(日本)が(慰安婦を強制動員)したと認め、記者たちを集めて許してくれと言えば、私たちも許せるのではないか」
2018年9月3日、92歳の“生存者”キム・ボクトンは車椅子に乗って、ソウル鐘路区政府ソウル庁舎別館の前で「和解・癒やし財団」の解散を求める1人デモを行った。お腹に広がったガンのため、腹腔鏡手術を受けてから5日後のことだった。
「年老いたキム・ボクトンが『一日でももっと仲良く過ごすためには、安倍が出て来なければならない』と言っていたと、新聞に書いてほしい。そうしてくれるかい?」平和活動家のキム・ボクトンは、現場に取材に来ていた朝日新聞の武田肇特派員に「この話を安倍晋三日本首相に伝えてほしい」と何度も言った。武田記者は「がんばってみます」と答えた。
93歳のキム・ボクトンが亡くなった今月28日、安倍首相は施政方針演説で、異例にも韓日関係について言及を避けた。安倍首相に続き外交演説を行った河野太郎外相は「韓日請求権協定、慰安婦問題に関する韓日合意など、国際的約束を守ることを(韓国に)強く要求する」と述べた。2015年12月28日に行った両国の合意が「最終的かつ不可逆的解決」という従来の立場の再確認だ。
「いや、私が死んだら、火葬して、さらさらと撒いてくれといったんだ。面倒を見る人もいないのに、墓を作る必要はない。それであの山にひらひらと…水に撒くと水の霊になるというから、山に撤いてもらって、蝶になって世界中を飛び回りたいな(笑い)」
93歳、戦時性暴力生存者であり平和活動家だったキム・ボクトンは、この世と別れる5時間前に、力を振り絞って最後の遺志を残した。「日本軍慰安婦問題の解決に向けて最後まで闘ってほしい」、「在日朝鮮学校の支援を任せるから、がんばってくれ」
「死んだら、蝶になってひらひらと世界を飛び回りたい」と言っていたキム・ボクトンは、今どの空を飛んでいるのだろう。