日本人の中田光信さん(64)は1997年、日本で開かれた初めての裁判で、故ヨ・ウンテク氏が発言した内容を今も覚えている。「当時賃金を受け取っていたら牛6頭を買っただろうし、もしそのお金を持っていたら、私の人生は変わったでしょう」。ヨ氏は日帝強制占領期(日本の植民地時代)に日本製鉄(現新日鉄住金)の日本現地工場に強制動員された。
今月30日、日本の戦犯企業の強制労役被害者に対する損害賠償を認めた韓国最高裁(大法院)の判決が出る前に、中田さんと上田慶司さん(60)はソウル瑞草洞(ソチョドン)の最高裁判所前に立っていた。中田さんはヨ氏の遺影を、上田さんは故シン・チョンス氏の遺影を持っていた。ヨ氏とシン氏は、イ・チュンシク氏(94)とともに、新日鉄住金を相手取って損害賠償訴訟を起こしたが、裁判が遅れ、この世を去った強制動員の被害者たちだ。2人の日本人は同日、亡くなったヨ氏とシン氏の代わりに、最高裁判所大法廷で勝訴判決を直接聞いた。中田さんは「2人が生きていたら、どんなに喜んだだろうと思うと、本当に残念だ。でも、イ・チュンシクさんがご健在で本当に良かった。ありがたく思っている」と話した。
最高裁の判決に日本政府が強く反発しており、一部右翼による「嫌韓」の動きが現れている状況で、二人はなぜ徴用被害者の遺影を掲げたのだろうか。ヨ氏とシン氏は1997年、大阪地裁に新日本製鉄に名前を変えた企業と日本政府を相手取り、損害賠償と未払い賃金の支給を求める訴訟を起こした。公務員だった中田さんと上田さんは「日本製鉄元徴用工裁判を支援する会」を立ち上げ、日本だけでなく韓国の裁判にも駆け付けた。「周りに在日コリアンが多く、韓国に親近感を持っていました。また、当時には過去の歴史問題を解決しなければならないという雰囲気も強かったし」(中田さん)。「特に歴史に関心はありませんでしたが、『助けてください』という強制動員被害者の声を聞いて、裁判を支援するようになりました。長い時間にわたって裁判を見守っているうちに、“家族”と感じるようになり、家族のことだから自分のことのようにこれまで続けてきました」(上田さん)
強制動員の傷が残っていたヨ氏は、最初は2人を信頼しなかったという。「日本で裁判を受ける際、(代わりに)歯ブラシを買ってあげると言ったら、ヨさんが『日本人に金を渡せば、お釣りを返してくれないかもしれない』と断りました。日本に対する信頼が全くないことを実感しました」。上田さんはヨ氏と初めて会った日のことを、こう振り返った。しかし、裁判が進むにつれ、ヨ氏が舟歌を歌ってくれるほど親しい間柄になったという。上田さんの言うようにまさに“家族”となったのだ。
2003年、日本の最高裁はヨ氏とシン氏の敗訴を確定した。「日本には正義がないと大きく失望した」と言っていた上田さんは、中田さんと共に韓国での訴訟を支援することにした。未払い賃金を記録した供託金名簿をもとに、訴訟に参加する被害者を探すために全国を駆け巡った。その時、今回の最高裁判決のもう一人の原告であるキム・ギュス氏に出会った。「名簿を持って訪ねたら、『誰に強制動員された事実を聞いたのか』と怒っていました。苦しい過去だったから、家族にも話さなかったそうです」(中田さん)。ところが、キム氏も「逃げようとして殴られた。月給をもらえなかったことよりも、頑張って働いたのに殴られたり、不当な待遇を受けたことが忘れられない」と上田さんに打ち明けるほど、心を開いた。キム氏は最高裁の判決の4カ月前の今年6月に亡くなった。
韓国での裁判も1審と2審で敗訴したが、2012年に最高裁は徴用被害者に勝訴判決を言い渡した。しかし、再上告されたこの事件に対し、最高裁は5年間結論を下さなかった。最近になって、政治権力と司法権力がこの裁判をめぐり協議していた事実が明らかになった。上田さんは「韓国には憲法の精神が生きていると信じていたが、その裏側で判決が放置され続け、非常に心配だった。判決が遅れた理由である司法壟断を究明し、今日の判決に導いた韓国市民に感謝する」と語った。
2人の日本人は迅速な賠償を要求した。中田さんは「訴訟を始めた4人のうち1人だけが生きているのを見ると、被害者たちに残された時間はあまりない。新日鉄住金と日本政府は一日も早く被害を賠償しなければならない」と話した。より根本的には韓日両国の態度が変わらなければならないと指摘した。上田さんは「未来に向かっていこうという韓日両国が見逃しているのは戦争と植民地の被害者たちだ。日本にも戦争の被害者たちがおり、韓国政府も植民地の被害者を見捨てたことがある。今回の判決で、強制動員と慰安婦被害者の権利が回復され、(それを基に)新たな韓日関係を築いていかなければならない」と語った。