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「永遠のナンバーツー」金鍾泌元首相永眠

登録:2018-06-25 09:19 修正:2018-06-25 10:45
5・16クーデター主導した金鍾泌元首相死去 
金大中、金泳三・金鍾泌の「3金時代」にピリオド
金鍾泌元首相が今月23日午前8時15分に死去した。享年92歳。写真は故金元首相が1971年当時、朴正煕共和党総裁(右)から副総裁の任命状を受けている様子/聯合ニュース

 韓国政治の「風雲児」であり、現代史の中心にいた金鍾泌(キム・ジョンピル)元首相(92)が23日に死去した。5・16クーデターで朴正煕(パク・チョンヒ)政権を誕生させ、地域主義とボス・派閥政治を通じて1990年代「3金時代」を風靡した主役だ。「永遠のナンバーツー」として、常に権力の第二列にとどまったが、韓国政治史の主要局面が彼の“選択”によって揺れ動いた。

 金元首相は23日朝8時15分、ソウル青丘洞(チョングドン)にある自宅で、家族らが見守る中、息を引き取った。葬儀は本人の意思により家族葬で執り行われ、27日の出棺後に青丘洞の自宅と母校の清南道公州(コンジュ)高校で路祭を行ってから、故郷の扶余郡外山面(ウェサンミョン)に設けられた家族墓院に葬られる。遺族には息子のジン氏と娘のイェリ氏など1男1女がいる。

 彼の政治人生は「永遠のナンバーツー」「世渡りの達人」というが異名が示すように、権力に向けた強い意志と挫折の連続で、産業化に貢献したという評価もあるが、対日屈辱外交の当事者であるだけではなく、地域主義・派閥主義を利用した政治で民主主義を後退させたという批判が共存する。

 陸軍士官学校(第8期)出身のエリート軍人だった金元首相が韓国現代史の全面に登場したのは、彼が35歳だった1961年だ。妻の叔父にあたる朴正煕(パク・チョンヒ)元大統領と共に5・16クーデターを成功させた。彼は、陸士第8期の同期と共に5・16クーデターに乗り出し、6項目で構成された「革命公約」も執筆した。彼は朴正煕政権の初代中央情報部長をはじめ、民主共和党の創党を主導し、初代議長に就任すると共に、4年6カ月の首相在任など、「ナンバーツー」の座を不動のものにした。「クーデター政権」を維持するために彼が創立した中央情報部は、人権弾圧や工作政治、情報政治で韓国政治史の“暗黒期”をもたらした。共和党の創党過程で浮き彫りになった証券波紋やウォーカーヒル事件、セナラ自動車事件、パチンコ店事件などいわゆる4大疑惑事件の主役として、また「対日屈辱外交」の主犯として、国民の怒りを買ったことで、二度にわたる外遊を余儀なくされた。

 特に中央情報部長だった1962年、日本の大平正芳外相との会談で作成した「金鍾泌-大平メモ」は、現在まで強制徴用と日本軍「慰安婦」問題解決の足かせになっている。「金-大平メモ」には日本の強制侵奪に対する謝罪・賠償などに言及されておらず、請求権の資金と借款の規模だけが明記されている。日本の強制徴用と徴兵、日本軍「慰安婦」強制募集に対する日本政府の認定と謝罪などを受けられないまま、日本からの資金を持ち込むことだけに集中した。日本政府が現在まで日本軍「慰安婦」被害などに対する公式謝罪を拒否するのも、このためだ。同メモは1965年6月に調印された「韓日協定」の土台になり、「密室合意」という批判が後を絶たなかった。

 しかし、彼は当時、日本から持ち込んだ資金で「産業化」に寄与したことを誇りに思っていた。彼は『金鍾泌証言録』で「今日、先進国に劣らない自由民主主義とその土台になった世界経済10位圏の経済力は、韓日交渉で手に入れた元金から始まった」と記した。また、「自由や民主主義はそれを享受できる経済力に裏付けられなければならない」と述べた。クーデター以後、不正蓄財者とされたサムスンのイ・ビョンチョル会長など「困難に直面した企業家らの赦免」を提案し、故チョン・ジュヨン現代グループ会長が自動車産業に進出するよう勧めたのも本人だと明かした。

 1979年10・26事件で朴正煕政権が終わり、新軍部が登場し、彼はしばらく試練を強いられた。「不正蓄財者第1号」とされ財産を差し押さえられ、一切の政治活動が禁止された。朴正煕元大統領の死亡で、当時有力な政治指導者だった金元首相をはじめ、金泳三(キム・ヨンサム)氏や金大中(キム・デジュン)氏などが政権を握ると思われていたが、全斗換(チョン・ドゥファン)新軍部にはかなわなかった。彼は当時、盧泰愚(ノ・テウ)司令官に、絶対にトップの座を狙わないことや誠意を尽くしてトップを補佐する人だという印象を当てることなど、「ナンバーツー論」を説破したという。

 彼は1987年、新民主共和党を結成して再起に乗り出し、同年の大統領選挙に立候補したが、落選した。大統領選挙で金大中・金泳三・金鍾泌などいわゆる「3金」は政権を握れなかったが、翌年の第13代総選挙で平和民主党70議席、統一民主党59議席、新民主共和党35席などを得て、政治基盤を確保した。慶尚道と全羅道、そして忠清圏を中心にした政党体制が作られたのだ。

 以降、忠清圏を票田とする金元首相はいつも調整者の役割を果たした。「キング」ではなく、「キングメーカー」を自ら買って出た。彼は1990年、政権与党の民主正義党や金泳三氏の統一民主党との「3党合併」により、民主自由党を発足させ、与党政治家に変貌した。1992年の大統領選挙で、金泳三候補の大統領当選を助けて与党代表までのし上がったが、内部対立の末に離党し、1995年に自由民主連合(自民連)を結党した。

 彼の野党生活は長続きしなかった。1997年の大統領選挙を控え、金大中新政治国民会議総裁と議院内閣制改憲を前提とするいわゆる「DJP連合」を発表した。憲政史上初めて「水平的政権交代」が行われるのに寄与したのは、彼の政治的業績と評価される。

 彼は金大中政権で初代首相を務めた。しかし、議院内閣制への改憲と対北朝鮮政策をめぐり、金大中大統領と対立した。2001年9月、自民連が金大中政権の太陽政策に反対し、イム・ドンウォン統一部長官の解任建議案を可決したことで、DJP連合は崩壊した。にもかかわらず、最も記憶に残る出来事に、彼は韓日国交正常化交渉とDJP連合を挙げた。韓日国交正常化で近代化成長の土台が築かれ、金大中大統領の当選で産業化勢力と民主化勢力の歴史的和解が第一歩を踏み出したと説明した。

 2002年に盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領が当選した後は、彼の立地が狭まり始めた。彼は2004年、盧大統領の弾劾に参加したが、逆風に晒され、同年行われた総選挙で10選に失敗しただけでなく、自民連も地域区4議席だけにとどまった。結局、彼は「今日を持って総裁から退き、政界を去る」として、政界引退を宣言した。彼は「望もうが望むまいが、世の中は変わった」とし、「老兵は死なず消え去るのみ」と付け加えた。以後、2007年に李明博(イ・ミョンバク)大統領選候補を、2012年には朴槿恵(パク・クネ)大統領選候補を支持するなど、間接的な政治活動だけを行った。

 チェ・ジン大統領リーダーシップ研究院長は「金元首相はいつも強い者の側に立った」、「優しいリーダーシップなど、個人的な側面で評価できる部分もあるが、軍事独裁への貢献や地域感情の誘発などは止揚すべき部分」だと話した。イ・ジュンナン仁川大学教授(政治外交学)は「工作政治は朴正煕政権から始まっており、金鍾泌元首相にもその責任がある」と話した。

 金元首相の死去について、政界では追悼が続いた。ユン・ヨンチャン大統領府国民疎通秘書官は「韓国現代政治史に残した故人の足跡は簡単には消えないだろう」とし、「詩・書・画を楽しんでいた故人は、豪快な笑いで殺伐とした政治の裏面を余白と風流で豊かにした」と弔意を表した。共に民主党は「故人の政治の波乱に対する真の評価は生きて行く後代に任せるとしても、故人は韓国現代史そのものとして記憶されるだろう」とし、自由韓国党は「大韓民国が自由民主主義を守り、経済発展を通じて10大経済大国を建設するのに大きな役割を果たした」と評価した。正義党は「古い歴史の流れがは断ち切られ、ようやく新しい時代が完全に定着した」と論評した。

イ・ジョンフン記者(お問い合わせ japan@hani.co.kr)
https://www.hani.co.kr/arti/politics/assembly/850447.html韓国語原文入力:2018-06-24 22:29
訳H.J

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