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光州5・18保安司令部の元捜査官、「集団発砲は『全斗煥が責任を負う』と聞いた」

登録:2018-05-12 09:46 修正:2018-05-12 15:20
5・18あの日の真実ー集団発砲命令 
光州505保安部隊の元捜査官ホ・ジャンファン氏の証言 
「集団発砲の前日、保安司令部上官が事前に説明」 
「『市民軍が先に撃った』と言うように指示を受け 
「全斗煥-イ・ハクボン保安司ラインが主要な決定を下した」
戒厳軍は1980年5月27日、5・18民主化運動を武力で残忍に鎮圧した。1980年5月27日、光州で鎮圧が終わった後、新軍部の核心のチョン・ホヨン当時特戦司令官(右)がチャン・ヒョンテ当時全羅南道知事と握手している=5・18記録館提供//ハンギョレ新聞社

 1980年5・18光州民主化運動の時、市民に向けた戒厳軍の集団発砲など軍の主要決定を保安司令部(現・機務司令部)が事実上主導したという証言が出た。全斗煥(チョン・ドゥファン)保安司令官-イ・ハクボン対共処長-光州505保安部隊のS課長につながる指揮-報告体系が、軍の動きを実質的に率いたということだ。

 3日、江原道春川(チュンチョン)のある喫茶店で会った光州505保安部隊の元捜査官ホ・ジャンファン氏(70)は「保安司令部が空輸特戦旅団に作戦を助言し、(全南道庁前の集団発砲前日の)5月20日、発砲決定が下された」と話した。大邱(テグ)出身のホ氏は、5・18市民軍パク・ナムソン元状況室長により全斗煥、盧泰愚(ノ・テウ)ら新軍部中心勢力とともに殺人容疑で告訴された9人のうちの一人だ。5・18当時悪名高かった光州505保安部隊の中心捜査官だった。

 彼の上司だったS課長は1980年5月20日午後5~6時頃、発砲と関連した計画を部隊員たちに説明した。ホ氏は「当時、S課長が捜査官らを集めて『すぐに発砲命令がある。味方側から先に発砲したと言ってはならない。暴徒が奪取した銃で先に撃ったと言え』と事前に口止めされた」と話した。戒厳軍は翌日の21日午後1時、全羅南道道庁前で市民らに向けて無差別発砲し、錦南路(クムナムロ)で市民34人が死亡した。

 彼は発砲決定の責任者が全斗煥保安司令官だという話も聞いたと伝えた。ホ氏は「S課長に『自由党の時の崔仁圭(チェ・インギュ)のようになるのではないですか?』と聞くと、S課長が『おい、あの時と今とでは世の中の状況が違うだろう。今は司令官殿(全斗煥)がこの責任を負うんだ』と答えた」と伝えた。崔仁圭は、李承晩(イ・スンマン)政権末期の内務長官として市民たちに発砲するよう警察に命令し、4・19革命後1961年に死刑となった。一方、S課長は1981年、ソウル保安司令部本部に席を移し、学生運動家らを強制徴集するいわゆる「緑化事業」を主導したことで知られた。

保安司令部(現・機務司令部)光州505保安部隊の捜査官だったホ・ジャンファン氏が今月3日、江原道春川のある喫茶店で1980年の5・18当時の保安隊内部状況を証言している//ハンギョレ新聞社

 S課長の説明の直後の5月20日夜10時30分、3空輸旅団は将兵らに実弾を支給し、光州駅で市民に向かってはじめて銃を撃った。ホ氏は「軍は命令によってのみ実弾を支給する。実弾支給は発砲のための予備動作だ。発砲する意図があるという意味だ」と話した。5月20日、実弾支給と翌日の全羅南道道庁前で集団発砲後に下された自衛権発動についても、彼は「不法発砲を後から合理化するための処置だった。当時、現地指揮官の交戦指針に『自衛権発動』などはなかった」と言い切った。

 ホ氏は、指揮権が二元化されていたという点も指摘した。彼は「いわゆる『作戦助言』という名で現地保安部隊で顕微鏡のように細かく報告し、保安司令部で光州と関連した主要な決定が行われた」と話した。505保安部隊でイ・ハクボン保安司対共処長に報告したことをもとに、保安司令官が主要決定を下したということだ。当時、公式の指揮体系とは違い、全斗煥保安司令官を頂点とする非公式の指揮体系が存在した可能性を示す証言だ。

 ホ氏は、光州民主化運動の巨木だった故ホン・ナムスン弁護士(1912~2006)との縁も打ち明けた。5・18当時、ホン弁護士は戒厳司令部合同捜査本部で在野の首謀者とされて検察に渡されたが、供述を覆し、再調査過程で厳しい拷問を受けた。ホ氏はホン弁護士を再捜査したが、行跡をねつ造しろという指示を拒否し、抗命行為を理由に1981年標的監察を受け、強制的に転属させられた。

 その後、ホ氏は「本家」である保安司に連行され拷問まで受けた。彼が暇あるごとに「光州事態」の転末を記録したA4用紙の山が中央情報部に流れたからだ。彼はソウル保安司令部の捜査分室(いわゆる西氷庫ホテル)に連れて行かれ、18日間にわたって電気拷問などの苦痛を受けた。このような理由で、一時悪名高かった保安司令部の捜査官は、昨年政府から「民主有功者」として認められた。ホン弁護士が1998年4月16日に公証した文書を通じて、ホ氏が合同捜査本部の改ざん捜査に抗命したという事実を確認してくれたために可能なことだった。

 ホ氏は光州問題に決着をつけるためには国連など国際社会に光州抗争を再び告発し、新軍部の虐殺犯罪を歴史に明確に焼きつけなければならないと話した。彼は「今後、このような事のために一千万人署名運動でもしたい。こんなことで少しでも功績を認められ、望月洞(マンウォルドン)墓地に埋葬されたい」と話した。

春川/チョン・デハ記者(お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/society/area/844257.html韓国語原文入力:2018-05-11 17:42修正:2018-05-11 22:06
訳M.C

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