1980年の5・18(光州民主化運動)当時、戒厳軍に集団性的暴行を受けた10代の女子高生が精神的ショックに耐え切れず病気を患い、尼僧になったという証言が出た。うわさだけだった軍人による集団性的暴行に対する証言や証拠資料が出てきたことにより、戒厳軍と保安司令部(現・機務司令部)の捜査官らの性的暴行・拷問の事実を再び調査しなければならないという意見が提起されている。
5・18民衆抗争の負傷者同志会の初代会長を務めたイ・ジヒョン氏(芸名:イ・セサン・65)は8日、戒厳軍に集団性的暴行されたAさんの話を写真と共にハンギョレに公開した。この日の朝、ハンギョレが報道した「消せない5月…60日の拷問の後、釈放前日に性的暴行」の記事を見て連絡してきたのだった。
イ氏は1989年2月20日、Aさんの故郷のある食堂でAさんに会った。A氏はK女子高校1年生だった1980年5月19日、家に歩いて帰る途中、軍人5人に集団性的暴行を受けた。1989年の国会5・18光州聴聞会を控え、Aさんの兄が証人として出席しようとしていたイ氏を訪ね、「聴聞会で妹の話を公開して妹と母の恨みを晴らしてほしい」と要請し、Aさんに会うことになった。
イ氏がAさんに「5・18の時、どんな辛いことに遭ったのか」と聞くと、Aさんはうつむいて泣いてばかりだったという。横から兄が「空輸部隊数人に性的暴行された」と言うと、Aさんはその時ようやくこくりとうなずいた。Aさんの兄はイ氏に「集団性的暴行を受けた後、妹は狂ってしまった。それで仕方なく寺に送り尼になった」という事情を打ち明けた。
Aさんの話は1991年5月、女性研究会が発行した『光州民衆抗争と女性』という本にも掲載されている。この本には「性的暴行を受けたAさんはその後、一人で笑ったり、町の人らを罵るなど不安恐怖症を示した。だんだん状態が悪化し、家を出て行方不明になったりもしたAさんは、1987年に3カ月あまり羅州精神病院に入院した。『光州事件関係者の負傷度合い判定委員会』の推薦で診療を受けたりもした」と書かれている。その後、Aさんの行方は知られていなかったが、今回イ氏の証言と写真で尼僧になったという事実が明らかになった。
イ氏は当時、残酷な犯罪の犠牲者となったAさんの話を聴聞会に出て公開することにし、尼僧になったAさんの後ろ姿を写真に収めた。イ氏は「その時、聴聞会に出て全斗煥(チョン・ドゥファン)夫人のイ・スンジャと盧泰愚(ノ・テウ)の夫人のキム・オクスクが笑っている写真と一緒に、軍人らに集団性的暴行を受けて尼僧になったAさんの後ろ姿が写った写真を公開しようとした」と話した。しかし、Aさんの話は国会聴聞会時に公開されなかった。イ氏は「当時、5・18団体の関係者たちでさえ『いくら凶悪なやつらでもそこまでするわけがない』と、私の言葉を信じなかった」と話した。
多くの人たちが暴徒に追い込まれて死亡した当時の状況の中で、性的暴行の被害者たちはAさんのほかにも数多くいたものと推定される。当時、聴聞会や5・18の捜査過程で明らかにされなかった女性たちの被害事例についても再調査しなければならないという声もあがっている。
イ氏は「民間人虐殺の責任を追及するとともに、何よりこれまで隠れていた女性に対する国家暴力の真相が一つ残らず究明されなければならない」と話した。イ氏は1980年5月、戒厳軍によって片目を失い、5・18真相究明闘争に取り組み二回投獄された。彼は2012年から5・18家族史と現代史の痛みを描いた「片目の芸人・母上へ」という演劇を舞台に上げている。文化を通じて5・18の真相を究明したいという思いだ。