板門店(パンムンジョム)は戦争から平和へと向かう橋となるべきだった。だが、そうはなれなかった。戦争は終わらなかった。「停戦」という名の低強度の戦争は、南と北の7500万の市民(人民)の暮らしを絶え間なく締め付けた。板門店は敵対と軋轢と衝突の象徴だった。停戦65年の歳月は、北朝鮮を閉鎖国家に、南を島国にしてしまった。
その板門店で「大韓民国大統領・文在寅(ムン・ジェイン)」と「朝鮮民主主義人民共和国国務委員長・金正恩(キム・ジョンウン)」が27日に会い、戦争から平和へと進む橋をかけようとしている。共同繁栄という未知の土地につながる橋を。両首脳の交渉と談判が、乾いた利害の打算を超え、幻想の呼吸と情熱が欠かせないタンゴのダンスのように美しいことを、朝鮮半島の7500万の市民(人民)は切実に願っている。
板門店に象徴された分断の歴史が私たちが望んでいたものではなかったように、板門店も私たちが作ったものではない。戦争前にそこに住んでいた人々は自らを「ノルムンリの人」と呼んだ。沙川江に板の橋があったのでそう呼ばれたという人もおり、王が川を渡るのに橋がなく、村の人たちが大門をはずして橋をかけたのでノルムンリと呼んだという人もいる。どちらが事実であれ、ノルムンリという名前は「橋」に由来している。
橋は異なる二つの世界を繋ぐ。橋を渡って会えば、互いについて知らないゆえに疑ったり憎んでいた心が太陽を受けた明け方の霧のように跡形もなく消えていく。だから、橋は疎通だ。橋は平和と共同繁栄へと進む道だ。文大統領と金委員長が27日の会談の途中に、板門店湿地の上の軍事境界線の標識がある「徒歩橋」まで親交散歩をすることにしたという発表が意味深いのも、そのためだ。
ノルムンリも疎通の橋だった。朝鮮時代に明・清の使者団が漢陽に行く際、休憩を取ったところがノルムンリだ。漢陽と義州を結ぶ道に人生をかけたこの地の多くの人々が、疲れた体と心を休めていた。ノルムンリの人たちは旅人に食事や酒、寝床を提供した。そうしてノルムンリは旅籠の村になった。慰労と安息を与える村だ。
そのノルムンリの旅籠の前の豆畑に、戦争の真っ最中だった1951年10月22日、大国の交渉のテントが立てられたのは歴史の無慈悲な逆説だ。1953年7月27日午前10時、「国際連合軍司令官を一方とし、朝鮮人民軍最高司令官および中国人民支援軍司令員を他の一方とする韓国軍事停戦に関する協定」(停戦協定)が妥結されるまで、ノルムンリの旅籠村は冷戦初期の覇権争いの陳列場だった。大韓民国は交渉の主体ではなかった。李承晩(イ・スンマン)当時大統領が北進統一を掲げ、停戦に反対したためだ。協定が妥結されてからも、12時間のあいだ銃声・砲声はやまなかった。南と北の若い兵士たちは、必要のない高地占領戦に追い込まれ、自らの命を捨て同族の胸に発砲しなければならなかった。1953年7月27日夜10時、銃声・砲声が止まった時、夏の風が押し出した火薬のにおいが立ち込めるその場所に草虫の鳴き声が満ちた。だが、この地の人々の生活に平和は来なかった。停戦交渉の途中で中国人たちは「ノルムンリの店(酒場)」を「板門店」と漢字に書き替えて呼んだ。そのようにして敵対と葛藤と衝突の空間、板門店が誕生し、疎通と平和のノルムンリは消えた。
それゆえ板門店の南北首脳会談は、大国の政治に振り回され分断と戦争の渦に巻き込まれた朝鮮民族の主体的な歴史復元の努力だ。停戦体制の公式主体となることができなかった韓国としては、停戦体制を平和体制に変えていく道程の堂々たる主体であることを世界に宣布する歴史的意味がある。
板門店(停戦体制)をノルムンリ(平和体制)に戻そうという文大統領の行動に、最初から注目した人はまれだ。2017年7月6日、ドイツのベルリンで文大統領は「朝鮮半島に平和体制を構築する大胆な旅を始めようとしている」とし、「大韓民国新政府の朝鮮半島平和構想」を総合的にまとめて発表した。文大統領は「私たちがひとえに追求するのは平和」と述べ、北朝鮮の崩壊・吸収統一の排除▽北朝鮮体制の安全保障と朝鮮半島非核化の追求▽恒久的平和体制の構築などを提示した。「平昌五輪に北朝鮮が参加し、平和五輪にすること」を実践課題に掲げては、「いつでもどこでも金正恩委員長と会う用意がある」と明らかにした。ろうそく広場の力で大統領になってから二カ月にも経たなかった時期だ。しかし、注目どころか「金正恩の核威嚇の前で対話を乞う柔弱な指導者」という嘲弄と蔑視が注がれた。北朝鮮の相次ぐ核・ミサイル実験(発射)とあいまった金正恩委員長とドナルド・トランプ米大統領の「炎と恐怖」などの暴言争いの中で、朝鮮半島は未曾有の戦争危機に吸い込まれていった。文大統領は8・15祝辞で「すべてをかけて戦争だけは止める」と悲壮な約束をした。文大統領は9月21日(現地時間)、国連総会の基調演説で「平和の危機の前で、平昌が平和の光を灯すろうそくとなることを信じている」とし、「国連がろうそくとなることを、平和と同行するために心を一つにすることを願う」と訴えた。
戦争危機の中で文大統領は情勢反転の重要な礎を築いた。10月30日、カン・ギョンファ外交長官をして国会でTHAAD(高高度防衛ミサイル)体系に関する「3不」政策、すなわち、THAAD追加配置を検討せず▽米国のMD(ミサイル防御)体系に参加せず▽韓日米3国の安保協力は軍事同盟に発展しないと発表させた。核心は、「韓国は日米同盟の下位パートナーにはならない」という宣言だ。韓中関係を揺るがしたTHAADの軋轢を“取り繕い”、李明博(イ・ミョンバク)、朴槿恵(パク・クネ)政府の10年間で激化した韓米日対朝中ロの対立戦線をかき散らした。それだけ韓国の外交空間が広がった。
11月13日、国連総会は「平昌五輪停戦決議」を満場一致で採択した。五輪開幕1週間前の2月2日からパラリンピック閉幕1週間後の3月25日までの52日間、国連加盟国は「敵対行為」を止めなければならない。ところが金正恩委員長は11月29日、大陸間弾道ミサイル(ICBM)の試験発射を強行して「国家核兵力完成の歴史的大業、ロケット強国の偉業が実現された」と宣言した。朝鮮半島は戦争の危機に追い込まれ、平昌五輪は台無しになったという嘆きがあふれた。
闇が深ければ夜明けが来るというものだろうか。北朝鮮の「国家核兵力の完成宣言」は闇の最後、2008年の李明博政権の登場以来、10年間敵対と葛藤と突き進んできた朝鮮半島情勢の劇的な転換を予告するものだった。
文大統領は機会を逃さなかった。12月19日、冬季五輪開催地である平昌に行く大統領専用列車で、米国のNBC放送とのインタビューを通じて「韓米合同演習の延期の可能性を検討することは可能だ。私は米国にこれを提案し、米国は検討している」と公開した。韓米合同演習を「北の侵略戦争策動」と恐れる北朝鮮の五輪参加を引き出そうとする、「平昌」を平和をもたらす多角的な首脳外交のテコにしようとする布石だ。文大統領の発言は、米国と事前の合意なく「仕掛けた」ことだ。危険な冒険はすべてを変えた「神の一手」となり、「平昌(臨時)平和体制」の扉を開いた。「流れる情勢に運命を任せず、私たちが主導的に望む状況をつくり上げようとする意志と努力が状況を反転させた」という文大統領の回顧(4月19日、メディア会社社長団の招請大統領府昼食会)は過言ではない。
金委員長は1月1日、新年の挨拶で「平昌五輪が成功裏に開催されることを心より願う。私たちは代表団の派遣を含めて必要な処置を取る用意があり、南北当局が至急会うことも可能だろう」と述べた。ようやく平和に進む対話の扉が開かれた。
その後は夢のような日々の連続だ。南北高官級会談、北川の平昌五輪出場合意(1月9日)→の金与正(キム・ヨジョン)労働党副委員長など北側代表団の訪韓、文大統領表敬訪問(2月9~11日)→ソ・フン、チョン・ウィヨン特使団の訪朝、首脳会談の合意発表(3月5~6日)→トランプ大統領、チョン・ウィヨン特使接見、「5月に朝米首脳会談開催の意向」発表(3月9日)…。
「平昌(臨時)平和体制」の形成には、70年間にわたる朝鮮半島の分断が作ってきたなじみの経路を脱した選択がさまざまに働いた。そのため、チャンスとリスクの要因を同時に備えた両刃の剣といえる。文大統領は、韓米軍事演習の延期・縮小を一方的に既成事実化したことで、韓米同盟を神の摂理と考えてきた両国の同盟論者たちの身をすくませた。金委員長は、ソ・フン、チョン・ウィヨン特使団と会い、「韓米合同演習を理解する」と言い、後見国の中国を驚かせた。トランプ大統領はチョン特使と会い、その場で金委員長と会談する意思を明らかにし、参謀と戦略家たちをパニックに陥れた。南北米の三人の最高指導者のこのような選択は、新たな道を開く破天荒的な選択となりうるが、第2次世界大戦以降の北東アジア戦略地形や既得権勢力の力に押され、激しい逆風の口実となるリスクもある。文大統領は恒久的平和体制構築の過程で韓米同盟をどうすべきなのか。トランプ大統領は中国を牽制しようと北朝鮮を抱き込むのか。金委員長は米中間でどのような選択をするのだろうか。まだ答えを見つけなければならない質問が多い。
板門店での南北首脳会談が負わなければならない歴史の荷は前例なく重い。南北関係改善の転機を築き、史上初の朝米首脳会談が差し支えなく進められるよう、橋をかけなければならない。南北・朝米首脳会談が成功裏に終われば、朝鮮半島に暮らす7500万の市民(人民)はついに平和の地に足を踏み入れることができるはずだ。
だから、分断と戦争の悲惨な歴史に消えて行った多くの魂たちと手を取り合い、切なる思いを込めて一緒に叫ぼう。1966年のイタリアワールドカップ(北朝鮮が準々決勝に進出)と2002年韓日ワールドカップ(韓国が準決勝に進出)の時のように。「夢はかなう」と。