イ・スン・ドク、このハングル三文字をそっと呼んでみます。
日本軍「慰安婦」被害者の中で最高齢だったイさんは、4月4日午前7時30分、この世を旅立たれました。
今年で100歳。寒い冬にも散らない椿に似ているとして、普段「慰安婦」にかかわる活動家たちは「椿おばあさん」と呼んだといいます。
その決意と堅固な精神に、あらためて頭が下がります。
ハンギョレはイ・スンドクさんの永眠を迎え、これまでイさんと共にした瞬間を集めました。
時には記事で、時には写真でハンギョレと共にしてくださったイさんに、最後に伝えたいプレゼントです。
人生の最後まで「慰安婦」被害者たちの名誉と人権回復に向けて
闘いを止めなかったイさんの精神もずっと引き継いでいきます。
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日本の裁判所から賠償金支払い判決を引き出す
1998年4月28日付ハンギョレ1面に、イ・スンドクさんの姿が大きく載りました。写真の右側の、小柄な方です。前日の27日、山口県の地方裁判所下関支所は、イさんら3人の日本軍「慰安婦」被害者たちに「日本国はそれぞれ30万円ずつ計90万円の慰謝料を支払え」と判決を下しました。1992年に日本政府を相手に損害賠償請求訴訟を提起してから、5年5カ月ぶりでした。
当時、ハンギョレはこの1審判決について「『慰安婦』賠償問題が新たな局面を迎えることになった」と勝利の意味を見出しました。しかしその後、日本の最高裁判所が棄却の判決を下し、イさんを含む「慰安婦」被害者はついに日本政府の公式謝罪と賠償を受けることができませんでした。
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春・夏・秋・冬・再び春…果てしない戦い
2007年3月1日、安倍首相は、日本軍「慰安婦」強制連行を認めた「河野談話」(1993年)に対する見解を問う記者たちの質問に「『慰安婦』動員の強制性を裏づける証拠はない」と言いました。10年が過ぎた今も安倍首相と日本政府の公式立場は大きくは変わっていません。
安倍首相の一方的な主張が伝えられるとすぐ後の2007年3月14日、ソウル鍾路区(チョンノグ)の駐韓日本大使館前で行われた定期水曜集会にイ・スンドクさんがいました。年齢は90歳のころです。安倍首相の「妄言」を糾弾するため、イさんは3月の冷たい風に当たりながら日本大使館前に座り続けました。
2007年6月27日、第767回定期水曜集会に参加したイ・スンドクさんの姿です。2007年6月26日(現地時間)、米下院外交委員会は「賛成39、反対2」という圧倒的多数の賛成で「日本軍慰安婦決議案」を採択しました。日本軍「慰安婦」強制動員について日本政府が公式謝罪することを要求する内容でした。写真を撮ったキム・ボンギュ記者は「この日は特におばあさんたちの表情が上気していた」と書きました。
この日、ある女性活動家は日本の謝罪と反省を求める横断幕に手を乗せて座ったイさんに近付き、「おばあさん、おめでとうございます」と握手を求めました。韓国だけでなく台湾・オランダ・インドネシアなど10カ国余りで決議案が通過したことを記念し、人権・市民団体が記念集会を開きました。
7月31日(現地時間30日)には、米下院本会議で「日本軍慰安婦決議案」が満場一致で採択されました。第3国の日本に対する拘束力はありませんでしたが、決議案を発議した日系3世のマイク・ホンダ議員(民主・カリフォルニア)は「日本の政治家たちに未来に対する責任を強調したもの」だと力説しました。この日駐韓日本大使館前で行われた記者会見に出席したイさんの顔には笑みがあふれていました。
春が過ぎて夏、秋、冬が何回も過ぎましたが、イさんは水曜集会に出続けました。2009年3月4日の第855回定期水曜集会にも、2010年8月11日の第930回水曜集会にも、イさんがいました。「椿おばあさん」という愛称にふさわしく、どこまでもまっすぐでした。
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胸につけたカーネーション一輪
「『慰安婦』生活は厳しいものだった。頭、胸、臀部などを靴や足で蹴られ、刀による傷痕もできた。その後遺症で目がよく見えなくなり、精神が朦朧とした不自由な体になった。慰安所での蛮行はイ・スンドクさんの体と魂までぼろぼろにした」(韓国挺身隊問題対策協議会が公開したイ・スンドクおばあさんの略伝より)
イさんには子どもがいませんでした。一人で暮らしていたイさんは、ソウル麻浦区にある「慰安婦」被害者の憩いの場である「平和のわが家」で暮らし、2014年6月、高齢による病気で近くの療養病院に入院して過ごしました。
そんなイさんにカーネーションをつけてくれた子どもたちがいました。2010年5月4日、性売買被害を受けた青少年たちがイさんをはじめとする「慰安婦」被害者の女性たちを訪ねて来たのです。黄色いカーネーションは子どもたちが直接作りました。子どもたちのおかげでしょうか。久しぶりにイさんの顔に楽しげな笑みが浮かびました。
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「平和のわが家」親友だけを残して…
イさんの「親友」はキル・ウォンオクさん(89)、キム・ボクトンさん(91)です。3人は日本軍「慰安婦」被害者の憩いの場である「平和のわが家」で一緒に暮らしました。「平和のわが家」は2003年12月、ソウル西大門区(ソデムング)に作られましたが、2012年10月22日、麻浦区(マポグ)延南洞(ヨンナムドン)に引っ越しました。2011年3月1日、ソン・ハッキュ当時民主党代表が西大門区の「わが家」に立ち寄った時も、イさんは親友たちと一緒に座って話をしていました。
しかし、2012年10月22日の憩いの場の引越しの日、イさんの姿はありませんでした。当時ハンギョレのチェ・ウリ記者は記事で「キルさんは、病院で療養中のイ・スンドクさんの尿瓶と、キルさんが持ってきてほしいと何度もお願いした味噌を入れたかめと魚を入れた容器まで一つずつ持ってくると、やっと笑みを取り戻した」と書きました。イさんが95歳の時のことです。もはや、水曜集会に出たイさんの姿を探すことはできません。
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おばあさんが伝えた最後のニュース
イさんがハンギョレと共に世の中に最後に知らせたニュースは、韓国政府を相手に損害賠償を請求するということでした。「2015年12月28日、韓国と日本政府が締結した「慰安婦」合意案には被害者の同意がなく、これによって被害者に精神的・物質的損害を与えた」という趣旨です。イさんと「親友」のキル・ウォンオクさんとキム・ボクトンさん、パク・オクソンさん、イ・ヨンスさんなど、計12人が訴訟に参加しました。
「罪のない罪人として生きてきた私たちに、日本は事実を認めて謝罪し後遺症を補償せよ」といったイさんは、もうこの世にいません。残った「慰安婦」被害者のおばあさんは38人です。
文/イ・ユジン記者、グラフィック/カン・ミンジン デザイナー