日本軍「慰安婦」被害者の中で最高齢だったイ・スンドクさんが、4日午前7時30分に亡くなった。享年100歳。
韓国挺身隊問題対策協議会のユン・ミヒャン代表は4日、フェイスブックのアカウントを通じて「椿おばあさんのイ・スンドクさん(100歳)が、午前7時30分頃、息を引き取られました」と訃報を伝えた。イさんの死去で、政府に登録された「慰安婦」被害者238人のうち、生存者は38人に減った。
1918年に全羅北道金堤(キムジェ)で生まれたイさんは、1934年、17歳の時に「米の飯と良い服を与えるという日本人の言葉に騙されて」日本軍に連れていかれ、満州と上海を転々とし辛酸をなめ、1945年の解放後に韓国に帰ってきた。「慰安婦」問題が起こった後、世界各地を回り証言活動を展開したイさんは、1998年に5年5カ月間の法廷闘争を通じて、初めて日本の法廷から約30万円の賠償金支払い判決を引き出した。ユン・ミヒャン代表はフェイスブックで訃報を伝え、「(故人は)日本政府を相手に起こした訴訟の一審で勝訴を勝ち取った関釜裁判の最後の原告でした」と伝えた。
普段、「慰安婦」問題にかかわる活動家たちは、イさんが寒い冬にも枯れない椿に似ていると言い「椿おばあさん」と呼んだ。イさんは麻浦区にある「慰安婦」被害者の共同施設である「平和の我が家」で暮らしていたが、2014年6月からは高齢のために近くの療養病院に入院していた。
イさんの焼香所は、ソウル西大門区(ソデムング)の延世大学セブランス病院葬儀場第14号室で、6日午前に出棺予定だ。一般人の弔問も可能。
以下は、韓国挺身隊問題対策協議会が公開したイさんの略歴。
「罪のない罪人として金堤から満州へ連れて行かれ…」
1918年、全羅北道金堤で生まれた。1男1女の長女だった。イ・スンドクさんは他の地に働きに出ていた両親に代わり家事に従事していた。
1937年、夕食を作るために畑の畦でヨモギを採っていたとき、見ず知らずの韓国人の男が話しかけてきた。「そんな仕事をするより、私について来れば靴も着物もあげるし、お腹いっぱい食べられるところに連れていってやる」。イ・スンドクさんは、貧しい家の事情のためにつらい生活をやりくりしていたため、男の提案を受け入れた。最後に両親にあいさつをして行かなければと懇願したが、男は時間がないと言ってイ・スンドクさんを強圧的に連れていった。イ・スンドクさんは恐ろしさに泣きながら連れていかれた。慰安婦の徴集のための就業詐欺だった。裡里邑(イリウプ)の旅館に到着した時、そこには各地域から集められた15~19歳くらいの幼い娘たち15人がいた。イ・スンドクさんは少女たちと列車に乗り、中国上海に向かった。おぞましい慰安婦生活のはじまりだった。
当時、イ・スンドクさんの両親は行方不明になった娘を探すうちに病気になって亡くなった。一人残された弟は、叔母さんの家に居候したという。
イ・スンドクさんの「慰安婦」生活はつらいものだった。頭、胸、臀部などを靴や足で蹴られ、刀による傷痕もできた。その後遺症で目がよく見えなくなり、精神は朦朧とし不自由な体になった。慰安所での蛮行はイ・スンドクさんの体と魂までぼろぼろにした。
1945年終戦後、日本軍はいなくなった。イ・スンドクさんは朝鮮の人々に交じって帰還することができた。ぼろぼろになった体を引きずって故郷に帰ってきたイ・スンドクさんは、弟と近所の住民には女中奉公をしていたと話した。以降、傷痕を抱えて数奇な人生を生きた。
イ・スンドクさんは、太平洋戦争の犠牲者遺族会の会員を通じて被害者申告の受け付けがされていることを知り、遺族会を通じて悪夢のような過去を申告した。その後、水曜集会や人権キャンプなどに活発に参加しながら自身の恨を晴らし、再び戦争が起きて同じ被害者が生じないよう尽力した。いまだ解決されていない歴史の恥部を抱え、痛みをこらえきれずイ・スンドクさんはこのように叫んだ。
「植民地下の生活苦で負った苦痛で、何の罪もない罪人として生きてきた私たちに、日本国は事実を認めて謝罪し、精神的肉体的に苦しめられた後遺症を補償せよ」
イ・スンドクさんは4月4日朝7時40分に永眠された。
どうか平和で暖かいところで、あなたの傷ついた魂が慰められることを希願する。数えきれない不眠の夜と残酷な悪夢に苦しまない、広々とした安息の日を心から願う。
故人の魂はこのように安らぎを求めるが、生き残った私たちは故人の名前を記憶し、故人の願いどおり問題が解決される日まで覚醒した目でこの歴史を守るだろう。
慰めがイ・スンドクさんとともにあらんことを!