登録 : 2017.03.29 23:27 修正 : 2017.03.30 06:59

中日戦争・太平洋戦争遺跡を訪ねる 

済州道西帰浦市大静邑モスル浦の飛行場に 
格納庫20個作り飛行機を隠す 
アルオルムの地下には巨大な坑道陣地 
 
飛行場建設に強制動員された住民たち 
シャベルとツルハシで働かされ苦痛を体験

中日・太平洋戦争当時に日本軍が中国爆撃用に使った済州特別自治道西帰浦市大静邑サンモ里のアルトゥル飛行場の格納庫を観光客が見学している=済州/キム・ミョンジン記者//ハンギョレ新聞社

 中国南京市の南京大虐殺記念館の展示空間には「世界航空戦史上、未曾有の大空襲」というタイトルがついた小さな新聞記事が展示されている。1937年8月、日本軍が中国の南京の爆撃に成功したという内容だ。この記事と済州島(チェジュド)にはどんな関係があるのだろうか?

 済州島は地政学的に韓中日3カ国の中央に位置する戦略的要衝の地だ。日本南端の九州地方と中国南部を結ぶ所に位置する。日本は1926年、軍事目的で済州市山地港工事をする過程で済州島の軍事的用途に注目し始めた。この過程で済州の西帰浦市(ソギポシ)大静邑(テジョンウプ)のアルトゥルに飛行場建設を計画した。

 ここには中日戦争と太平洋戦争の痕跡をとどめる軍事遺跡がそっくり残っている。 日帝の侵略戦争下で苦痛を強いられた痕跡だ。12日、済州西帰浦市大静邑モスル浦のアルトゥル飛行場の旧給水塔に上がると、広い野原の畑と畑の間に格納庫とコンクリート構造物が一望できた。

 日本海軍は中日戦争(1937年7月7日~1945年9月2日、中国では「抗日戦争」と呼び、日本では1931年9月18日の満州事変を基点に「15年戦争」と呼ぶ)前の1931年3月に航空基地を建設し始め、1935年に60万平方メートルの飛行場を完工した。住民たちはその地名を取って今でも「モスル浦飛行場」または「アルトゥル飛行場」と呼ぶ。

太平洋戦争当時、日本軍が通信施設として使ったと推定される軍事施設=済州/キム・ミョンジン記者//ハンギョレ新聞社

 済州島が日本の戦略的関心を引いたのは1937年8月中旬だった。同年7月7日、中国北京近郊で起きた盧溝橋事件を契機に中国北部で始まった戦争は8月に入ると中国中部まで戦線が拡大し、中日全面戦争に広がった。

 日本海軍は当時最新鋭で航続距離に優れた96式陸上攻撃機を使って、8月15日から南京に対する渡洋爆撃を開始した。初めは日本の長崎県にある大村航空基地から出撃し爆撃したが、帰着地は済州島の航空基地だった。当時、日本から中国中部に最も近い場所が済州島だったためだ。以後、済州島航空基地に大村の海軍航空部隊が駐留することになり、南京、上海などに対する渡洋爆撃拠点も済州島に移された。これと同時にアルトゥル飛行場は132万平方メートルに拡張された。太平洋戦争時期の1944年10月頃からは、220万平方メートルに追加拡張する工事に入った。このため、近所の村は解放されたしばらく後まで「大村部落」と呼ばれ、今は「大洞(テドン)」に変わった。

 日本海軍は1937年11月中旬、上海付近を占領し飛行場を確保すると、大村海軍航空部隊の本拠地を中国に移した。済州島民は当時、日本軍の飛行機が中国に向かって飛んで行くのを目撃した。大静邑のムン・サンジン氏(92)は「シナ事変(中日戦争)が勃発した時からアルトゥル飛行場から中国側に爆撃するために飛行機が飛んで行くのを何度も見た。 飛行機が飛ぶときは決まって西側に飛んで行った」と記憶した。

 済州島の日本軍軍事施設を研究した塚崎昌之氏は「済州島の坑道陣地など軍事施設は、日本でも例を見ないほど巨大だ。済州島からの南京空襲は36回、年600機、投下爆弾は300トンに達し、南京の多くの市民が殺傷された」と話した。済州島の平和団体は2014年から毎年、南京大虐殺を追悼する12月13日になればアルトゥル飛行場一帯で追悼式を行っている。

 済州島の日本軍海岸陣地遺跡も歴史を再確認できるもう一つの見どころだ。

 太平洋戦争(1941年12月7日~1945年8月15日)末期の1945年、済州島は巨大な要塞だった。敗戦を目前にした日本軍は「日本本土」を防御するために済州島を防御基地として最後の決死抗戦を行う「決7号作戦」の準備に入った。このために日帝は済州島海岸を取り囲む海岸陣地を構築した。満州で戦闘を行った関東軍など、各種兵器を備えた軍部隊が済州島全域に配置された。1945年8月基準で人口25万人あまりの済州島に、6万7千人あまりの日本軍が駐留した。

太平洋戦争当時、日本軍が済州島民を動員して軍事施設用途で作った地下坑道陣地=済州/ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

 飛行場だけでなく各種の軍事施設構築には済州島民が強制動員された。日本軍は米軍の空襲に備えてぶ厚いコンクリートで半円形の屋根をした有蓋掩体(一種の格納庫)20個を作った。飛行機を隠して置くためのこの施設の中で、現在19個がアルトゥル飛行場周辺に原形のまま残っている。飛行場の入口から100メートルほど入ってみると、左側には地下壕(飛行隊の指揮所または通信施設と推定)がある。幅28メートル、長さ35メートルの半地下で作られたコンクリート構造物であるこのバンカーも原形を維持している。バンカー上の雑木を除去し整頓された感じだ。モスル峰レーダー基地、アルオルム(寄生火口)の巨大坑道陣地、弾薬庫、発電施設、通信施設などはすべてその時に作られた。伊橋洞(イギョドン)通信施設周辺もきれいに整備されていた。日本海軍はアルトゥル飛行場近くのアルオルムの頂に4個の高射砲陣地を構築し、高射砲を配置して対空防御を行った。今でも半径4.3メートル、高さ1.5メートル規模のコンクリート構造物跡があるが、アルトゥル飛行場および松岳山(ソンアクサン)一帯の軍事施設が一望できる。アルオルムの地下には、戦闘司令室と弾薬庫、燃料貯蔵庫、魚雷貯蔵庫など主な軍事施設を隠す目的で高さ3メートル、幅4メートル、長さ1220メートルに及ぶ坑道陣地がある。松岳山海岸の馬羅島(マラド)行き船着き場の南東には19個の魚雷艇陣地がある。

 文化財庁は2002年5月、格納庫を近代文化遺産に指定し、2006年12月には地下壕と通信施設、城山日出峰(ソンサンイルチュルボン)海岸陣地など12カ所を追加指定した。

 この時期、日帝は済州島民を軍事施設構築に追い立てた。済州島民は小学校を卒業する年齢になれば、村毎に数人ずつ割り当てられて日本軍の軍事施設構築に強制動員された。住民は格納庫や坑道陣地を建設し重傷を負うこともあった。

 当時15歳でここで強制労働に苦しんだキム・ソンパン氏は、かつてハンギョレとのインタビューで「1945年5月に父親と兄と一緒に強制的に労務動員されて、松岳山で洞窟を掘って解放されて帰ってきた。当時60人あまりが合宿して仕事をしたが、ツルハシで作業して額をケガしたりもした」と話した。太平洋戦争が勃発してから3年間、飛行場建設と格納庫建設に動員されたムン・サンジン氏は「住民50人あまりが飛行場で一週間泊まり込みで労働して、また別の住民50人が行って交代した。海から砂利を運んで、槌で石を細かく割って持って行き、格納庫を作り上には土をかぶせ草を植えて偽装した。 その時は装備がなくて、シャベルとツルハシだけで飛行場の拡張工事を行った」と話した。

 済州島で決7号作戦のために日本軍は防御陣地104カ所、飛行場4カ所、海軍用特攻基地5カ所を構築した。

現地への行き方

■西帰浦市、大静邑のアルトゥル飛行場一帯

 この地域には中日戦争の時から活用されたアルトゥル飛行場をはじめ格納庫、高射砲陣地、坑道陣地、地下壕、通信施設など太平洋戦争の遺跡、済州4.3事件関連のソアルオルム予備検束追悼碑を見ることができる。大静邑では朝鮮戦争時期の陸軍第1訓練所関連の正門柱と強兵台教会を見ることができる。4~5時間あればこれらの施設を見て回ることができる。

 済州市外バスターミナルからモスル浦終点停留場(大静邑)まで市外バス750-2,750-3,750-4などを利用して行く。バスは随時運行。その後、ハモ2里停留場など大静邑内から山伊水洞(サンイスドン)停留場まで循環バス951に乗る。山伊水洞停留場で降りれば松岳山海岸の絶壁に作られた日本海軍の特攻基地(坑道陣地)を見ることができる。今は絶壁が崩れる恐れがあるため出入りが統制されている。ここからアルトゥル飛行場側に歩いて自然の風景と軍事施設跡を訪ねることができる。

■城山日出峯(ソンサンイルチュルボン)海岸特攻基地の場所

 日帝は松岳山だけでなく北村里(プクチョルリ)、城山日出峯(ソンサンイルチュルボン)などにも海軍特攻基地を建設した。クァンチギ浜辺に沿って行くことができる城山日出峰絶壁の下にある海軍特攻基地は、まだ近くまで行くことができる。市外バス710、710-1に乗って城山里入口の停留場に降り、食堂の間の路地を進めば良い。

済州/ホ・ホジュン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

韓国語原文入力:2017-03-29 16:54
http://www.hani.co.kr/arti/culture/travel/788485.html 訳J.S(3870字)

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