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[ルポ]小鹿島の涙を拭いてくれた“13年間の同行”は日本の町の弁護士から始まった

登録:2017-01-24 02:26 修正:2017-01-28 06:32
植民地時代に隔離されて強制断種・堕胎 
日本の弁護士、人権侵害を知ってから 
2004年、韓国の弁護士らと共に訴訟 
500人超える原告の陳述書を直接取り 
日本政府を相手に被害賠償を牽引 
 
解放後も人権侵害は続いたが 
韓国政府は、月1万5千円の支援金“すずめの涙” 
結局、政府相手取り損害賠償訴訟を提起 
弁護人団の国境を越えた人権意識も高まる 
「ベトナム戦争での虐殺」公益訴訟も検討
今月14日「ハンセン人権活動白書」の出版に合わせて行われた「ハンセン病患者の人権と課題」討論会に、徳田靖之弁護士(前列右から4番目)など日本の弁護士と、パク・ヨンリプ弁護士(前列左から2番目)など韓国の弁護士が一堂に集まった=ハンセン人人権弁護団提供//ハンギョレ新聞社

 徳田靖之弁護士(73)が小鹿島(ソロクト)を初めて訪れたのは2003年の夏だった。1916年、日本が朝鮮のハンセン病患者を強制隔離するために病院(慈恵病院、現国立小鹿島病院)をつくり、彼らを収容した場所が小鹿島だった。徳田弁護士は、日本政府に対する小鹿島住民たちの補償金請求を手伝うため、小鹿島の地を踏んだ。それから14年が経った今月14日、徳田弁護士は再び小鹿島に足を運んだ。ハンセン病患者のための韓日弁護士による連帯活動が記録された「ハンセン人権活動白書」の出版を記念するイベントに参加するためだった。徳田弁護士はハンセン人人権弁護団を率いるパク・ヨンリプ弁護士と抱き合いながら、目を潤ませた。

 同日の行事には徳田弁護士の他にも大槻倫子、近藤剛、清水善朗、鮎京眞知子、水口真寿美からなる6人の日本の弁護士が同行した。パク・ヨンリプ団長とチャン・チョルウ副団長、チョ・ヨンソン、イ・ヨンギ、ヤン・ジョンスク、イ・ジョンイル、ソ・ジュンヒ、キム・ジュンウ弁護士など、ハンセン人人権弁護団所属の弁護士たちが彼らを暖かく迎えた。彼らは刷り上がったばかりの白書を持って小鹿島ハンセン病患者たちの納骨堂である「萬霊堂」へその足で向かった。幼くして強制的に故郷と家族から離され、小鹿島に移されたハンセン病患者らは断種・堕胎手術で子孫をほとんど残せなかった。帰るところも面倒を見てくれる人もいない彼らの最後の居場所が萬霊堂だった。「英霊の皆さん。13年にわたる日本のハンセン病患者補償請求に決着がつきました。断種・堕胎訴訟は大詰めを迎えております。これからは差別と偏見のない平等な世界で安らかにお眠りください」。ソ・ジュンヒ弁護士の告諭文の朗読が終わると、韓国と日本の弁護士たちは白書の隣に菊の花をささげた。

 彼らの出会いは2004年までさかのぼる。九州大分県別府市の“町の弁護士”である徳田氏は1995年、ハンセン病療養所にいた作家の島比呂志氏から手紙をもらった。「(ハンセン病患者を強制隔離する)『らい予防法』のような悪法を存続させてきたことについて、人権と最も深い関係にある弁護士会の責任はないのか」。徳田弁護士に警策に振り下ろすような手紙だった。“何もしなかった罪”を滅ぼすため、徳田弁護士は1998年のらい予防法違憲確認及び国家賠償請求訴訟を起こした。2001年、熊本地方裁判所はこれを認めた。日本政府は訴訟の結果を尊重し、国会は翌年「ハンセン病療養所入所者等に対する補償金の支給等に関する法律」を作って強制収容されたハンセン病患者たちに補償を始めた。

 勝利の喜びもつかの間、徳田弁護士はまた、別の“警策”と向き合わなければならなかった。『朝鮮ハンセン病史』の著者、滝尾英二氏が「日本帝国主義者たちは、日本だけでなく、韓国と台湾でも同じようにハンセン病患者の強制収容政策を実施したのに、なぜ自民族中心主義に閉じ込められて日本の被害だけ注目するのか」と叱咤したのだ。すぐに小鹿島を訪れた徳田弁護士は、しかし、日本の訴訟にはない悩みを抱えることになった。「父が太平洋戦争に参戦し亡くなったため、長い間、私は被害者だと思っていた。しかし父親は、中国やインドネシアで多くの人を殺した加害者でもあった。小鹿島で日本が犯した残酷さを前にして、胸が痛み、日本人であることが恥ずかしかった。このように加害者である私が加害者である日本を相手取り訴訟を起こそうと提案したら、それを受け入れてもらえるだろうか、不安だった」。徳田弁護士がそれから14年後に打ち明けた告白だ。

 日本政府に対する小鹿島住民たちの訴訟で代理人を務めることを決心した徳田弁護士など、日本の弁護士たちは2004年、韓国の弁護士たちの助けを求めるために民主社会のための弁護士会(民弁)光州(クァンジュ)・全羅南道支部と大韓弁護士協会(大韓弁協)のドアを叩いた。「日本人が韓国の国内問題に介入してもいいだろうか」という心配は杞憂だった。当時、大韓弁護士協会の人権委員長だったパク・ヨンリプ弁護士は「大韓弁協は社会的弱者のための法律活動をしていると自負していたが、これまで知らなかったハンセン病患者らの人権侵害を日本の弁護士たちから聞いたことが恥ずかしかった」と話した。“らい病者”という偏見がもたらしたハンセン病患者に対する心の壁を崩してくれたのも、日本の弁護士たちだった。当時、民弁光州・全羅南道支部長を務めていたミン・ギョンハン弁護士は「若い日本の弁護士がハンセン病患者たちにご飯を食べさせ、残りのご飯を食べる姿を見て、深い感銘を受けた」と回想した。韓国の弁護士たちの反省は行動につながった。パク弁護士は同年7月、志を共にする弁護士たちと一緒に「小鹿島のハンセン病患者に対する補償請求訴訟韓国弁護団」を作り、韓国のハンセン病患者らの補償要求を受け入れなかった日本の厚生労働省に対し、日本の弁護士たちと共に取り消し訴訟を提起した。東京地方裁判所は2005年10月25日、取り消し訴訟を却下したが、韓日の弁護士とハンセン病患者らの努力の末に、日本は法を改正して日帝強制占領期(日本の植民地時代)に強制隔離された韓国と台湾のハンセン病患者まで補償対象を拡大した。裁判所の判決に挫折せず、韓日の弁護士と市民たちが国会を動かしたのだ。

 しかし、法改正ですべてが終わったわけではなかった。日本で補償を受けるためには、日帝強制占領期の小鹿島などに強制隔離されたという“証拠”を示さなければならなかった。植民地と戦争を経験し、まともな資料が残っておらず、韓日の弁護士らは、全国に散らばっていたハンセン病患者に会って陳述書を取り始めた。この陳述書を基に、日本厚生労働省は2006年3月27日から昨年5月12日まで韓国のハンセン病患者590人に1人当たり800万円の補償を行った。厚生労働省との交渉を務めてきた鮎京眞知子弁護士は「強制収容所を作った日本から来た弁護士だけだったら、信じてくれなかったかもしれないが、韓国の弁護士たちのおかげでハンセン病患者らが安心して任せてくれた。感謝している」と韓国の弁護士たちに花を持たせた。

 これまで日本政府に対する訴訟はハンセン病患者のほかにも慰安婦・強制動員・原爆被害者の例があるが、少しでも補償を得たのはハンセン病患者と原爆被害者だけだ。チャン・ワンイク弁護士は「日本人被害者が認められれば、韓国人被害者も認められるが、そうでなければ認めようとしない日本政府の立場は今も変わっていない」としながらも、「それでもハンセン病患者の訴訟では勝利したということに非常に重要な意味がある」と話した。

 国籍を基準にみると、彼らは韓国人、日本人に分けられるが、ハンセン病患者の人権の観点からすると、彼らは一つだった。良心的な韓日市民たちの連帯は、韓日間の過去の問題の解決策でもある。清水善朗弁護士は「日本政府が加害者であるにもかかわらず、釜山少女像を問題視して、韓国を苦しめていることに憤りを覚える」として、「ハンセン病患者の戦いは、国を越えて市民と市民が力を合わせて韓日問題を解決していく先例を作った」と評価した。

 徳田弁護士は「韓国ハンセン病患者の日本訴訟」の目的として4つを挙げた。日本の謝罪と賠償、日帝強占期におけるハンセン病患者の人権侵害の真相究明、韓国におけるハンセン病患者の人権回復、韓国・日本・台湾のハンセン病患者らの連帯。日本政府の補償が始まってから、3つは実現された。しかし、日帝支配期以後も続いたハンセン病患者らの人権侵害を回復するのは、韓国に残された課題だった。2006年10月、韓国の弁護士たちは既存の集いを「ハンセン人人権弁護団」に再整備して、後続作業を開始した。真相究明と補償案を議論するうちに、2007年に韓国の国会で「ハンセン病患者被害事件の真相究明及び被害者生活支援等に関する法律」が可決され、2009~2013年には「ハンセン病被害事件真相究明委員会」が活動した。しかし、韓国の補償法には、日本や台湾とは異なり、国家の謝罪と責任が抜け落ちていた。2012年から支給された補償も基礎生活保護受給者や次上位階層のハンセン病患者に月額15万ウォン(約1万5千円)を支給するに止まった。昨年3月になってようやく全ての被害者に補償金が支給されるようする改正法が施行された。しかし、高齢であるハンセン病患者らに月15万ウォンという補償金は実質的な被害補償になりえず、日本の補償金1億ウォンよりはるかに少ない。結局、韓国の不十分な補償のため、ハンセン人人権弁護団は2011年から6回にわたり、ハンセン病患者539人の強制断種・堕胎に対する損害賠償請求訴訟を提起した。

 今や韓国の弁護士たちは、日本の弁護士らから受け継いだものをより多くの人たちと分かち合おうとしている。初期のハンセン病患者訴訟の過程で韓国の弁護士たちの交通費や食費、宿泊費など実費を出したのは日本の公益基金だった。韓国の弁護士たちもハンセン病患者訴訟の過程で集めた基金をもとに、公益訴訟を支援する社団法人を構成する計画だ。人権問題において、日本の弁護士たちが日本を飛び越えたように、韓国の弁護士たちも韓国を飛び越えようとしている。ベトナム戦争に参戦した韓国軍の民間人虐殺問題について検討しているチョ・ヨンソン弁護士は「日本の弁護士たちの省察が韓国に伝わり、私たちの省察が今度は韓国軍により被害を受けたベトナムに向かっている。ハンセン病患者活動で学んだ人権に対する省察がここで止まることなく、進んでいかなければならない」と話した。

 13年が過ぎても徳田弁護士の心には小鹿島があった。同日、イベントを終えた夜10時17分、徳田弁護士は大槻弁護士とともに明かりが消えた国立小鹿島病院を訪れた。2人に気付いたのか、眠りから覚めたおばあさんが聞き取れないような話を始めた。大槻弁護士が耳の遠いおばあさんの手を握って「お元気で」と挨拶する間、徳田弁護士はおばあさんを力強く抱きしめた。ソン・オクナムさんは2人が忘れられない日本に対する韓国人ハンセン病患者補償請求訴訟の“最初の”原告だった。

小鹿島/キム・ミンギョン記者(お問い合わせ japan@hani.co.kr)
https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/779936.html 韓国語原文入力:2017-01-23 18:35
訳H.J(4622字)

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