今月14日、全羅南道高興(コフン)鹿洞(ノットン)港沖合の小鹿島(ソロクト)に嬉しい客が訪れた。こちらの住民をはじめ、ハンセン病患者590人を代理して韓国と日本政府を相手取り訴訟を起こしたハンセン人権弁護団所属の弁護士たちだった。パク・ヨンリプ団長をはじめ十数人の弁護士は、2004年、日本政府に対して補償金請求訴訟を起こしたのを皮切りに、13年にわたり小鹿島住民たちと苦楽を共にした。その結果、日本では昨年5月、日本政府が590人に対する補償金の支給を最終確定し、韓国では1、2審で勝訴し、大法院(最高裁)の判決を待っている。同日は、13年間にわたる長い戦いの末、ついに手にした勝利を祝う日だった。
住民たちにとって嬉しい客は、他にもいた。ハンセン病患者訴訟を初めて提案した日本の弁護士たちだ。中でも喜寿を超えた徳田靖之弁護士の訪問は住民たちはもちろん、韓国の弁護士たちにとっても感慨深いものがあった。彼は2002年、日本政府によるハンセン病患者の人権蹂躙政策を補償する法が制定されると、2003年、韓国のハンセン病患者のボランティア団体を通じて韓国の弁護士らに連絡してきた。日帝強制占領期(日本の植民地時代)にあった小鹿島住民に対する強制隔離と堕胎、断種政策の被害補償を日本政府に請求する訴訟を提案するためだった。徳田弁護士は同年2月、日本の弁護士たちを率いて小鹿島を訪問した。原告になる住民たちに会って、直接陳述書を受け取っている彼の姿に韓国の弁護士たちは深い感銘を受けた。「言葉も通じないのに、あえて韓国に来て直接供述書を取ると言っていました。理由を訊くと、彼は『依頼人が供述する姿を直接見ないと、法廷できちんと弁論できない』と答えました。書面で供述を受け取ることに慣れていた私たちとは大違いで、反省させられました」。当時、徳田弁護士と共に訴訟を準備したミン・ギョンハン弁護士はこのように語った。「ハンセン病に対する誤解が依然として残っている時だったけど、徳田さんは直接住民たちの家を訪れて供述を取りました。住民たちが作ってくれた素朴な食事をおいしく食べていた姿が今も忘れられません」。2004年日本政府に対して起こした訴訟は、翌年敗訴したが、日本の弁護士たちの持続的な活動で、2006年には日本政府が関連法を改正し、同年3月に小鹿島住民2人に対する初の補償決定が下された。徳田氏をはじめとする日本の弁護士たちの献身的な努力がなければ、不可能なことだ。
徳田弁護士は同日午後、韓国の弁護士たちが用意した打ち上げパーティーで、これまで言えなかった“過去”を打ち明けた。「私の父は太平洋戦争当時、軍人として参戦して戦死した。私は戦争被害者だ。しかし、同時に加害者でもある。父が中国と東南アジアでそこの人たちに大きな苦痛を与えたからだ」。徳田弁護士は「加害者が差し出した手を喜んで握ってくれた小鹿島住民たちにむしろ感謝している」と話した。彼の言葉に韓国の弁護士たちの胸が熱くなった。夕食後、彼はパク・ヨンリプ団長に丁重にお願いした。「もし13年前、私がお会いした依頼人がご健在でしたら、またお会いできるでしょうか」。深夜、小鹿島に戻る彼の後ろ姿に人権弁護士の真の姿を見た。人権は、民族と国境を超越する人類の普遍的価値という事実を、彼は行動で語っていた。
17日、彼と同年代の法曹人、金淇春(キム・ギチュン)元大統領秘書室長が特検に召還された。金氏は、政権に批判的な文化芸術人を弾圧するための「ブラックリスト」の作成を主導した疑いを受けている。金氏の出頭場面を見ながら、ふと徳田弁護士を思い出した。