主人を失った小麦畑はひっそりとしていた。先月29日午後、全羅南道宝城郡(ポソングン)熊峙面(ウンチミョン)柳山里(ユサンリ)富春(ブチュン)村の入り口を入ると、裏山で鳥の群れがバタバタと羽ばたき空へ飛んでいった。
富春村は15世帯ほどが暮らす小さな村だ。豆の脱穀をしていたある住民の案内で、故ペク・ナムギ農民が耕作していた麦畑を訪れた。畑の真ん中に立っている青々とした松の木の間にかけられた横断幕が、晩秋の風になびいた。「兄さん!早く起きて、小麦畑でマッコリ一杯やりましょうよ」
「悪いやつらが良い人を殺しちまった」
小麦畑近くの畑で大根を抜いていたソン・サネさん(78)は「解剖もしないことになったのに、(政府は)葬儀もさせないのか?」と尋ねた。9月25日に死亡した農民ペク・ナムギ氏の遺体を解剖するとしていた警察は、10月28日に解剖令状を再申請しないことにした。ソン氏は「何回殺すつもりだっていうんだい。しっかりしていて頭がよくて、本当に惜しい人だった。とても土に埋められられない」と話した。「人を撃ち殺したやつらが出てくるテレビも見たくないよ…」
ペク氏は昨年11月14日、ソウルの民衆総決起集会に参加する2日前に、この畑で小麦を手で押して植えた。民主化運動を身を投じたペク氏は1982年に刑務所から出所し、妻と一緒に故郷の村に定着した。そして家の近くの山を耕して5000坪の畑を作った。韓国の在来種小麦がなくなってしまうことを懸念した彼は、後輩の農民たちと全国を巡りながら在来小麦の種を集め、満遍なく分けた。彼もまた1989年に宝城で初めての在来小麦農民になった。宝城農民会と在来小麦保全運動・光州(クァンジュ)全羅南道本部の後輩たちは6月、主人のいない小麦畑で小麦を収穫した。全国1000人あまりの市民が「ペク・ナムギの在来小麦畑」で収穫した小麦を挽いて作った全粒粉や麺類を購入した。
「兄さんの精神が復活するように祈りつつ種をまかなくては」
ペク氏の後輩の農民たちは今月2日、「兄さんの小麦畑」で種まきをする。6月の小麦の収穫の際に残しておいた小麦を主人のいない畑にまくこの作業は、「この世で一番悲しい種まき」だ。宝城郡農民会長のクォン・ヨンシクさん(52)は「本当に暖かい方だった。兄さんがこの世に残してくれた正しい意志を継ぐために、私たちがこの小麦畑を耕作し続けるつもりだ」と話した。彼らは来春この小麦畑で収穫した後、小麦を残して周辺の農民にすべて提供する予定だ。在来小麦保全運動光州全羅南道本部長のチェ・ガンウンさん(54)は「故人が毎年欠かさず小麦を植えた小麦畑は、お金では測れない貴重な価値がある。生命を耕し私たちの農村を守ったという意味が込められた『ペク・ナムギの小麦畑』を耕作しながら、故人の追悼や記念事業も実施する方針」だと語った。
小麦畑から200メートルあまり離れた故人の家は寂寞としていた。「義理堅い人、献身の生き方を忘れない」と書かれた黄色い追悼リボンが家の玄関先にかけられていた。家の庭にはコチュジャンとテンジャン(味噌)を入れた甕が100個ほど整然と置かれていた。故人が生前座っていた伝統家屋の縁側には、秋の日差しだけが寂しく降り注いでいた。
故人は数日後、冷たい遺体となって家と小麦畑に帰ってくる。「故ペク・ナムギ汎国民対策委員会」は今月1日、故人の葬儀日程と埋葬地を発表する予定だ。奇怪な国政壟断事態で国民の怒りを買っている朴槿恵(パク・クネ)政権は、国家暴力によって犠牲になった農民の死に対し、依然沈黙している。