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国家暴力が奪った「生命と平和の働き手」

登録:2016-09-25 21:52 修正:2016-09-26 07:11
大学生の時、民主化運動で退学、拷問受け 
出所後に帰郷、農民運動に献身 
民衆総決起大会に参加し「米価安定」を要求 
警察の放水銃に撃たれ脳内出血で重態に
警察の放水銃に撃たれ重態に陥ったペク・ナムギさんが25日午前、316日ぶりにソウル大学病院の集中治療室で死亡した。市民がソウル大学病院の集中治療室から霊安室に彼の遺体を運んでいる=キム・ポンギュ先任記者//ハンギョレ新聞社

 「生命と平和の働き手」と呼ばれた彼の熱い心臓が、ついに冷たくなった。

 昨年11月、民衆総決起集会に参加して冷たい放水銃の直撃を受けて倒れ、ソウル大学病院の集中治療室に入院した農民ペク・ナムギ氏(69)は、23日に状態が急激に悪化した。腎臓機能の弱化で薬品治療も不可能になり、週末を越すことは難しいという医療スタッフの意見で、家族と知人がペク氏の病床に急きょ集まった。7月にも同様な症状を見せたが、乗り越えたことを思い出しながら、家族たちはかすかな希望を捨てなかった。結局ペク氏は25日午後1時58分頃に亡くなった。前日は自身の誕生日だった。娘のトラジ氏は自身のツイッターに「相変らず警察が葬儀場を取り囲んでいるけれど、冥福を祈って下さったすべての方に感謝を申し上げると共に、父をきれいな姿で送る準備をします。必ず勝ちます」と書いた。

 彼は1947年に先祖が9代にわたって暮らした全羅南道宝城郡(ポソングン)熊峙面(ウンチミョン)プチュン村で生まれた。1968年中央大行政学科に入学し、朴正煕(パクジョンヒ)政権の3選改憲や維新などの独裁政治に対抗する民主化運動で、2回除籍された。朴正煕元大統領が襲撃された10・26事態以降にようやく訪れた「ソウルの春」で、ペクさんは1980年に大学に復学し、再び民主化運動に飛び込んだ。だが、クーデターで執権した全斗煥(チョンドゥファン)政権の戒厳布告令違反で逮捕され、粉唐辛子液を鼻に注入されるなどの拷問を受けた。懲役3年の刑を宣告され、中央大からは退学処分にあった。

 1981年の三一節特赦で仮釈放された直後、パク・ギョンスクさん(63)と結婚し、新婚生活を送っていたところは、先祖が代々暮らしてきたプチュン村だった。「イムマヌエル」(神は私たちとともにおられる)という自身のカトリック洗礼名のように、低いところに臨んだイエスの精神に倣うためだったのだろうか。急速な経済成長をむかえて若者は都市に向かう時代だったが、彼は正反対の道を選んだ。彼は全国を歩き回って求めた韓国麦の種子を育て、宝城郡の「韓国麦1号農民」になった。1994年には韓国麦興し運動光州(クァンジュ)・全羅南道本部を共に作って、共同議長に選出された。二人の娘の名前はトラジ(桔梗、35)とミンジュファ(民主花、30)、息子はトゥサン(斗山、33)と名付けた。家で飼っている犬の名前はオイサム(盧武鉉元大統領は2009年5月23日に逝去した)とパリルパル(金大中元大統領の逝去日2009年8月18日)だった。1992年、カトリック農民会の副会長になり、当時それまでの生存権闘争の代わりに、平和・生命・共同体運動をリードした彼を、長年の同僚は「生命と平和の働き手」と呼んだ。

 昨年11月14日、彼は自宅で朝食をとってから、農民120人余りと共に上京し、「民衆総決起」集会に参加した。朴槿恵(パククネ)大統領が公約した米価安定を守ることを要求するためだった。朴大統領は80キロ当たりの米価の21万ウォン(約1万9千円)台の保障を約束したが、2013年に17万ウォン(約1万6千円)だった米価は、当時15万ウォン(約1万3千円)に暴落した状況だった。

 彼はこの日のデモで午後7時頃、鍾路(チョンノ)区庁前交差点で警察の車壁に近付いて、警察が発射した放水銃に撃たれて倒れ、頭をアスファルトの路面に強く打ち付けた。脳内出血で病院に運ばれ、4時間のおよぶ手術に加えて脳手術を受けたが、意識を回復できず、集中治療室で人工呼吸器に依存して生命を維持してきた。

 彼が倒れた直後から、家族とカトリック農民会を中心に「生命と平和の働き手、農民ペク・ナムギ氏の快癒と国家暴力糾弾汎国民対策委員会」が作られ、真相究明と責任者の処罰を要求してきた。昨年11月18日にはカン・シンミョン前警察庁長官とク・ウンス前ソウル地方警察庁長官など7人を殺人未遂の疑いで告発した。今年3月には、国とカン前庁長を対象に2億4000万ウォン(約2200万円)の損害賠償請求訴訟も提起した。12日、野党3党の要求で国会安全行政委員会で聴聞会が開かれたが、カン前庁長は当時の放水措置は適切だったとして、「人が負傷したり死亡したからと無条件に謝ることは適切でない」と述べ、法的責任を認めなかった。

 農民ペク・ナムギ氏が暮らしたプチュン村の住民たちは、秋の収穫の最中に飛び込んだ悲報に痛恨の声を漏らした。ペク氏と幼い時からの友人だった同年輩のソン・ヨンファン氏(69)の夫人イ・ミジャさん(62)は「本当に無念で胸が痛む」と話した。全国農民会光州全羅南道連盟は、市・郡別に焼香所を設置することにし、幹部は対策を議論するためにソウルに向かった。

 ペク氏が昨年11月、生涯最後に手で撒いた韓国麦は、今年6月ペク氏の後輩と妻のパクさんが収穫した。ペク氏が倒れる前の収穫量は40キロ袋で50~60個だったが、今度は32.5袋に終わった。家族たちはこの日、収穫した小麦に「ペク・ナムギ小麦」という名前を付けて、種子を普及することにした。来秋、家族たちは「ペク・ナムギ小麦」の種子を彼の畑に再び撒く予定だ。

キム・ジフン、パク・イムグン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/762638.html 韓国語原文入力:2016-09-25 19:01
訳J.S(2455字)

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