金武星(キム・ムソン) セヌリ党代表の家系は、韓国社会で主流を成す一族がどう誕生し、そして成長するのか象徴的に見せてくれる。
金代表の父親の金龍周(キム・ヨンジュ)は1905年、慶尚南道の咸陽(ハミャン)で生まれ、当時としては珍しく釜山商高を出て浦項(ポハン)で事業基盤を磨き上げる。 解放と戦争という試練が襲うが、むしろ事業は飛躍的な成長を遂げる。 彼は米軍政庁の信任を得て、1945年9月下旬に「敵産企業」である朝鮮郵船株式会社の管理人になり、払い下げを受け大韓船主(後に韓進<ハンジン>海運に吸収)と改名し、1979年には初めて「1億ドル運賃塔」を受賞する海運企業に育てる。 また、朝鮮戦争中の1951年11月には朝鮮4大紡織会社の一つであった敵産企業である鐘淵紡績の光州(クァンジュ)工場を米軍政通訳官出身のキム・ヒョンナムと共に払い下げを受け、それぞれ日新(イルシン)紡織と全南(チョンナム)紡織として分け合うことになる。
1950年代の大規模企業23社のうち、10社は敵産企業の払い下げを受け財閥に成長することになるが、金龍周の全南紡織もその10社中の一つに挙げられる。ソル・ギョンドン(大韓グループ)、キム・ソンゴン(金星グループ)、キム・ジテ(韓国生糸グループ)、パク・トゥビョン(東洋ビール)、キム・ジョンヒ(韓国火薬)もここに該当する。朝鮮戦争直後に財閥形成の原動力になったのは米国の援助資金だった。 戦後に韓国に流入した援助資金は、当時の国内総生産の30%前後を占めるほど絶対的だった。 全南紡織を含め、太倉(テチャン)紡織、金星(クムソン)紡織、京城(キョンソン)紡織、鮮京(ソンギョン)織物など、当時の代表的な紡織機業は戦争中に破壊された工場施設を復旧するために巨額の援助資金を配分された。
金龍周の全南紡織は1950年代に
財閥に成長した10大企業の一つ
張勉政権で与党院内代表に
“2代目与党院内代表”は前例無し
金武星は現代グループのヒョン・ジョンウン会長の母方の叔父
義兄のヒョン・ヨンウォンの父親は日帝時の
大金持ちヒョン・ジュンホで反民特委に訴えられ
兄のキム・チャンソンは父の家業を受け継ぐ
金龍周はその後政界に進出し、1960年に張勉政権で政府与党である民主党の院内総務(現在の院内代表に相当)を務め、朴正煕少将が主導した5・16クーデターで短い議員職を終えることになる。それでも父と息子が執権与党の院内代表を務めたケースは後にも先にも金龍周・金武星(2010年ハンナラ党院内代表)父子だけだ。 金龍周はその後、大韓紡織協会会長、韓国経営者総協会初代会長などを務めたが、ここでも再び記録を立てる。 父と息子が韓国経営者総協会会長を務めたケースも金龍周(1970年初代会長)とキム・チャンソン(金武星代表の兄、1997年3代会長)父子が唯一だ。
金武星代表一家の兄弟は華麗な姻戚関係を通じて政界、法曹界、言論界などに縁を広げていく。 金代表の姉であるキム・ムニ龍文(ヨンムン)学院理事長は、ヒョン・ヨンウォン新韓海運会長と結婚するが、義兄ヒョン・ヨンウォンの父親は日帝強制占領期間に湖南(ホナム)銀行を設立するほどの大金持ちであるヒョン・ジュンホだ。ヒョン・ジュンホは反民族行為特別調査委員会(反民特委)に反民族行為者の一人として起訴されもした人物だ。
姉のキム・ムニは娘4人をもうけたが二番目の娘のヒョン・ジョンウンが現代グループのチョン・モンホンと結婚し、今は現代グループの会長となっている。従って金武星はヒョン・ジョンウンの母方の叔父に当たる。
金武星の兄キム・チャンソンは、父親から家業を受け継いだ。 2004年、朴槿恵(パク・クネ)ハンナラ党代表は、不法大統領競選資金疑惑と盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領に対する弾劾の逆風を避けるため、汝矣島(ヨイド)にテント党舎を構えた。 以後、ソウル・塩倉(ヨムチャン)洞に党舎を用意して入ったが、“塩倉洞党舎”の建物のオーナーは(株)全紡だった。キム・チャンソンは朴正煕大統領記念事業会の理事を務めもした。
金武星代表の夫人チェ・ヤンオク明知(ミョンジ)大文化芸術大学院教授は、チェ・チファン元議員の娘だ。チェ元議員はソウル市警察局長、李承晩大統領秘書官を務めた後、5代から始めて国会議員を5期務めた人物だ。
金代表の父親である金龍周は5・16後に軍事政権に逮捕連行され調査を受け、出て来ると子供たちを座らせて「自分が事業をしていたのに政治という浮気をしたが、政治というのは我が家の性格には合わない。 お前たちは絶対に政治をしようと思うな」と申し渡したという。 そのため金代表は自らを我が家の突然変異と表現した。だが、金代表の家の事情を辿ってみれば、政治家を輩出しなければむしろ不自然に見えるほどだ。