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[ルポ] 静かな絶望の果てで汽車は走る…ソウル龍山で野宿するホームレスたち

登録:2015-07-18 02:26 修正:2015-07-18 07:20
ソウル龍山駅裏の寂しい公園にホームレスのテントや段ボールハウスがある。段ボール、ビニール、合板などで作られたホームレス達の家は、構造も設計も異なる=カン・ジェフン先任記者//ハンギョレ新聞社

ソウルの影の部分、ソウルの顔には決してならない裏舞台を歩きます。 都市の夜を歩いてみます。 この都市に宿った孤独と夢、懐かしさと憂鬱、温もりと悲しみ、愛と孤立を描こうと思います。 見知らぬ人の人生の中に入ろうとします。 3回目はソウル龍山(ヨンサン)駅裏の公園にテントや段ボールハウスを作って暮らす人々の空間を訪ねました。ホームレスと呼ばれる人々の人生も、同じ木に育った多くの葉のようにそれぞれ違いました。 すべての人に与えられる各々の違い。 最も人間的な話ではないでしょうか。

 夜11時10分に最後の列車がソウルから他の都市に向かって出発すれば、他の都市を出発した最終列車が午前3時15分に疲れたからだを引きずるようにして龍山駅に入ってくる。 長い夜が明けて真っ赤な太陽が昇れば、列車より早く地下鉄が午前5時14分にタタタタと軽い音楽を鳴らして最初に出発する。 全てが毎日正確な時間に起きる。 毎日同じ時間に列車が入ってきては出て行き、切符を買った旅行者は出発時間を待って正確に列車に乗る。 列車が駅に入ってくると人々は電光掲示板や時計を見て出発を待つ。 実際、人々は出るために駅に入ってくるのだ。 駅はそういうところだ。 出たり入ったりして、出会いと別れが繰り返されて、持ったり失ったりを繰り返す人生のような所ではないか。 コントロールが利かない程に疾走して、いつかは立ち止まる他はない所。 休んで再び走ることになる所。そうするうちに老朽化した列車が最後の運行を終えて永遠に止まることになる所。 廃列車が片づけられた鉄路に光輝く新しい列車が入ってきて、拙いながらも楽しい最初の旅を始める所。

8日、ポニーテールおじさんのテント(右)と記者のテントの間に置かれた木製ベンチにおじさんが座っている。ポニーテールおじさんのテントの上にはビニールシートがかけられ雨を防いでいる =パク・ユリ記者//ハンギョレ新聞社

 時空を駆ける列車の線路の脇で身を縮めて横たわり、毎日この夜が早く明けることを待っている男がいる。ソウル龍山駅裏、高架道路の下に寂しい小さな公園がある。茂った松林の間では鳥が飛び回り、公園の横には鉄路があり、終日鉄路と重い汽車がぶつかり摩擦する金属音が聞こえる。 ホームレスと呼ばれる人々が、テントや段ボールハウス20個余りを作ってここに住んでいる。 ソウルの江南(カンナム)に住めば、江南サラム(人)と呼ばれはしても、アパートに住んでいるからとアパート人とか、韓屋に住むからと韓屋人、ビルの屋上の小屋に住むからと屋上人と呼ばない。 しかし、外に住む人については、その住居形態が人を規定し定義する主要な定規となる。 ホームレスと呼ばれる人々が住む所に、この男も5年前からテントを張って暮らしている。 小説家イ・ウェスのようにとても長いポニーテールを結わいている男は57歳だ。 ポニーテールの男は毎日テントに訪ねてくる夜が嫌いだ。 毎晩テントを揺らす程の汽車の音が正確な間隔で聞こえてくることも、周囲が暗いことも、一人であることも、明日はどうなるか分からないことも、家族に会いたくなることも。 ポニーテールの男はラジオをつけてイヤホンを挿してDJの話を聞く。誰かが脇で喋っているようだ。 DJが視聴者の事情を読めば時には自分のことのようで、音楽を聴けば夜に一人でいることも少しはマシになった。 ポニーテールの男は自身と世の中を連結するイヤホンを、へその緒のようにまいて毎晩眠りに就いた。

「お金は持たずに来い、それでこそ本物だ」
「ところでだ。あんた幽霊じゃないか?」

 7日夜9時頃、酒に酔った“チェ・ゲバラ”おじさん(45)は、拳一つがやっと入る程にぴたりと近づき、同じ質問を続けた。キューバの伝説的革命家、チェ・ゲバラ(1928~1967)は時間と空間を跳び越えて、韓国の龍山駅裏の公園に住む一人のホームレスの黒いTシャツにプリントされていた。 常にチェ・ゲバラのTシャツを着ているイムおじさんは、照明もなく薄暗い公園に黒い服を着て現れた私が幽霊のようだと言った。

 公園の木のベンチにはすでに空になった焼酎瓶が数本横になっていた。酒を飲んだ人々がベンチの周囲をブラブラと歩き回っていた。 聖公会財団がホームレスの社会復帰をを助けるために作った再自立総合支援センターの活動家と共に初めて訪ねて行ったが、明日からは一人でこの空間にいるのだと考えると緊張した。こちらにテントを張ってもかまわないかと訊くと、酒に酔っていたのか、誤って聞いたのか、人々は拒絶しなかった。

「明日はお金は持たずに来い。一銭も持たずに。それでこそ本物だ」

「その服は何だ? あまりに場違いだ」

 あるおじさんは、ここで暮らしながら仕事をするなら、ちゃんとやれと言ったし、また別のおじさんは韓国の政治地形に関してしばらく淀みなく解説した。その時、一人酔っていなかったポニーテールおじさんが現れた。助けてやると言った。

「俺を取材すると言っても…でもここで生きている人もそれぞれやり方が違うし…」

「会社の人も各自みな違う生き方をしています。人はみな違うんじゃないですか?」

「それはそうだな」

「ところで、この家はどう作ればいいんですか?」

「段ボールハウスもあればテントもあるけど、まあテントがマシだろう。3万9000ウォンでマートで売ってるよ」

「雨が降ったらどうなりますか?」

「地面に木を敷いて、隙間を作ってテントを張ればいい。それなら雨が入ってこない。 でもほんの数日なら、そのまま地面に張ってもいい」

 ポニーテールおじさんとは翌日会うことにして公園を出た。 龍山駅に戻ろうと高架道路に歩いて上がった。高架道路の片隅の黄色い街灯の下に斜めに横たわり本を読んでいるおじさんがいた。 49歳のイムおじさんだ。 前歯のないおじさんは、黒のジャンパーに黒の帽子をかぶって横になって寝て、片手で頭を支え他の手で本をめくっていた。 傾斜した高架道路に横になったおじさんのからだもななめになっていた。目的地に向かって走って行く自動車が、どんなに轟音を出して通っても、おじさんは街灯の下でだまって本を読んでいた。 おじさんは公園の人々とあまり付き合わない。 夜はファンタジー小説を読み、昼は廃紙や古物を拾う。 古物を拾って稼いだ金で、古本屋で1000ウォンのファンタジー小説を買ったり、すでに読んでしまった本と取り替える。ファンタジー小説の中の異界、おじさんが生きるこの世とは違った世界が彼の唯一の楽しみだ。 ファンタジー小説おじさんには、毎日“夕食のある人生”が訪れるが、ある野党政治家が言った休息のある人生や質の高い人生ではない。 読書は彼が無数の夜に耐える方法だ。 ファンタジー小説はおじさんの一日が、今日と明日が連結されて続く人生が崩れないよう支える堤防のようなものだ。

一日中、列車や電車が行き来する
龍山駅裏の寂しい小さな公園
テントや段ボールの家が20個
57歳のポニーテール男は夜が嫌いだ
イヤフォンをへその緒のように巻いて眠りにつく
酒に酔った“チェ・ゲバラ”イムさんは
黒い服を着た私が幽霊のようだと言い
前歯のないイムさんは小説ばかり読んでいる
どうして完全に一人になったのか
彼らと話を始めた

龍山駅とおばあさんの記憶、そして30万ウォン

 翌8日、龍山駅のマートで定価より20%割引された3万1200ウォンでテントを買った。 龍山駅公園の人々の中で一部は古物を拾って生計をつないでいるが、3万1200ウォンはあき缶39キロを売って手にできる金額だ。財布を置いて家を出ようか、しばらく悩んだが想像するだけでも恐かった。 財布のない人生は、夕飯のない人生以上に果てしなく茫漠として切迫する。ご飯はどのようにして食べ、車にはどうやって乗り、そのような具体的状況も問題だが、100ウォン玉一つなく世の中に放り出されること自体が恐怖だ。 お金はそれ自体が世の中を生きていく暖かい支援物だ。 お腹が空いたり、眠りたい時や具合の悪い時も、お金は私たちに必要なものを与えてくれる。 お金がなければ飢えを満たすことができないし、安全に眠ることもできないし、具合が悪くてもただ我慢し続けるしかない。 前日に着た1万5000ウォンの黒いズボンより、もっとみすぼらしく見えるズボンに、色のくすんだ厚手のシャツを着て家を出たが、財布だけは置いて行くことはできなかった。

 ポニーテールおじさんに手伝ってもらい、おじさんのテントのそばに私のテントを張った。 ポニーテールおじさんと私のテントとの間にはとても長い椅子がある。おじさんが松の下に合板で作った椅子だ。松の枝に載せた傘やボックスは、夏の熱い陽光を遮ってくれる。 おじさんも最初から一銭も持たずに世の中に放り出されたわけではなかった。 おじさんが4歳の時、父親が農薬を飲んで自殺し、母親は再婚して連絡が途絶えた。祖母の手で育てられたポニーテールおじさんは、中学校まで学校に通った。 仁川に暮らして、沿岸埠頭に停泊した船で寝て、船の番をして金を稼いだ。 喫茶店のDJや、中華料理店の配達もした。 知人の紹介で34歳で大宇重工業の下請企業に就職した。建物の保安を担当する一種の警備であった。月給は130~150万ウォンだったと話した。 25歳の時に出会った女と同居して、二人の娘をもうけた。上の娘が7歳になった年に遅まきながら結婚式を挙げた。 妻の実家の援助で20坪余りの多世帯住宅を買った。冬になれば妻の姉がいる江原道束草(ソクチョ)に家族旅行に出かけもした。場所を変えながら賭博場を開く“ハウス賭博”に偶然に金を賭けることになり、嵌まってしまい、ヤミ金から金を借りてしまい、利子は利子を産んで4億ウォンまで膨れあがった。借金取りが脅迫しに家に訪ねてきた。高校生だった娘たちは傷ついた。 おじさんは家を出て旅館の部屋から3年間職場に通った。 妻とは別居した。 子供たちとはたまに会った。 洪水で氾濫して荒れ狂う川の水のように、借金は限度を越えていた。耐え難い脅迫で会社を辞めた。妻とは離婚した。

 2010年5月。荷物を処分して3年間暮らした仁川の旅館を出た。どこへ行くかも決めずに地下鉄の駅に行ったが、幼い頃の記憶が頭に浮かんだ。具合が悪かったおじさんのおばあさんは、孫の手を握って仁川から龍山まで来て、薬局で薬を求めた。その記憶を頼りに龍山駅に来た。 娘が誕生日に買ってくれた半袖のTシャツに薄いジャンパーをひっかけて。 ポケットにあったお金は30万ウォン。 数日間酒を飲んではどこにでも倒れて寝た。偶然、この公園を知って財布から出した数万ウォンでポッサム(茹でた豚肉)と焼酎を買って、こちらのホームレスを接待した。 ホームレスがおじさんにここに住めと言った。 龍山駅に来て2カ月が過ぎた時、二人の娘に電話をかけた。 電話番号が変わっていた。使われていない番号だった。完ぺきに捨てられて一人になった。 一人で放り出された。

 「この生活をしていると気が変になった人をしょっちゅう見るよ。初めから気が変なわけではないんだよ。 3年前には明らかに普通だったのに、久しぶりに会ってみると一人でへらへら笑いながら地面と話をしているんだよ。 自分を失ってしまうんだね。他のホームレスと付き合わずに一日中一人でさまよう人も多いよ」

 住居が一定でなく住民登録は抹消され信用不良者で借金取りは自分を探し回っていた。 ここで会った友達と教会に通って500ウォン、1000ウォンを受け取った。地下鉄の網棚に置かれた新聞を回収して廃品を売った。 元気そうには見えるが職場に通っている時に椎間板ヘルニアの手術を受けるなど障害5級判定を受けたからだだった。 路上でご飯を配る配給所に列んだ。ホームレス食堂がある所もあるが、路上でご飯を食べなければならない配給所もある。

 ポニーテールおじさんは、隣や向い側に座って食事をするホームレスの臭いの中でご飯を食べるのは苦痛だったと話した。 同じホームレスであっても、嗅覚までマヒするものではない。 おじさんは給食所でご飯を食べずにテントに携帯用ガスレンジとフライパンを持ちこんで自分で食事の準備をする。 ラーメンを食べたり、鍋にしたりもする。

「生きている意味がないね」

 龍山駅公園の夜は、酒で賑わい朝になればガランとする。列車の音のためにほとんどが朝7時には起きて各自が生きていく方式で散って行く。無料でご飯を食べてコインを受け取るコースが違い、古物を拾う人々は時間帯と動線が違う。ポニーテールおじさんのテントは公園の端っこにある。公園の真ん中には昨日酒宴を行ったベンチがある。こちらの人々が将棋を指し新聞を読んだり酒を飲んだりするテーブルだ。 昨日酒を飲んで、しばらく慶尚道と全羅道の政治指向と政治について語っていた半ズボンのおじさんが午後には一人でベンチに座っている。酒を飲まないと言葉が出ない。 「生きていても意味がない」

 故郷が忠清南道天安(チョナン)の半ズボンのおじさんは、家庭不和のためにこちらに来ることになったという話以外には殆ど質問に答えなかった。ベンチに並んで座ったおじさんと私の間には重い沈黙が流れた。鳥は松の間を自由に飛び回りしきりに鳴いていて、公園の横の線路に入ってきた列車が停車して重い金属音を上げた。 後日、他の人から聞いた話だが、おじさんはフィリピン出身の奥さんと結婚した。妻が娘たちを連れてフィリピンに行ってしまったのだという。 一人のホームレスが1998年に起きた事件のことを話すと、おじさんは「その時、私は結婚した」と話すのを聞いて、彼がその頃に結婚したことを知った。

 人々が暫し座って出て行く龍山駅で、出ることが出来ない人々の人生が鉄路の脇で続いている。 電車の切符をなくして時間に遅れれば、次の汽車に乗って発つ。 それを何度も繰り返しているうちに二度と汽車に乗らなくなる。 鉄路に一人取り残される。 それが自分の誤りであれ、貧困を産む社会構造の問題であれ、汽車に身を乗せる気持ちを捨てることになる。 空腹も寒さも甘受する。空っぽの胃で感じる渇望と飢えと寒さを感じる感覚は変わらないが、それさえも毎度続けば多少は慣れる。 昨日と今日そして明日という時間によらずに、時間の下に横になって寝る。 激しい雨や風にも避けようともしない。 風雨にずぶ濡れになってもただ横になって眠り静かに迎えるようになる。 絶望は悪魔のように、一度捕まれば決して放してくれない。 墜落する絶望の果てに、意味を失った人生の果ては意外に静かだ。

パク・ユリ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/700754.html 韓国語原文入力:2015-07-17 19:22
訳J.S(6344字)

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