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[現地ルポ]「4・3不良位牌」と攻撃されるイ・シンホ…彼は不良な犠牲者か (3)

登録:2015-05-01 20:35 修正:2015-05-02 06:42
4・3特別法への反撃、再審査を巡る議論
その主人公、南労党幹部イ・シンホ

スト主導容疑で検挙されたイ・シンホ
出獄後活動せずに家で過ごす
武装闘争に賛成しなかったが
支署に行ってきた後、自宅で銃殺さる
今もその子女はインタビューを拒否

済州南労党内の武装闘争論者だったキム・ダルサム人民遊撃隊総司令官(1925~50? 左)と、南労党員名簿に記載されていた大静面の住民たちの調書を虚偽作成して住民の命を救ったムン・ヒョンスン慕瑟浦支署長(1897~1966 右 //ハンギョレ新聞社

南労党員ならば犠牲者と言えないのか
モスル浦にはイ・シンホの墓碑と
南労党員名簿を虚偽作成して
住民たちを救ったモスル浦支署長
ムン・ヒョンスンの功徳碑が共存している

イ・シンホと一緒に連行されたコ・チュンオンの証言

 イ・シンホと南労党大静面の責任者イ・ウンバン(1910~2013)らは、集会と不法ストを主導した疑いなどで1947年3月17日、米軍政に検挙された。イ・シンホは同年4月30日、米軍政済州地方審理院(裁判所)で罰金5000ウォンに6カ月の刑を言い渡され、木浦(モッポ)で服役した。判決文を見ると、イ・シンホは「南労党大静面委員会委員長兼人民委員会副委員長であり、左翼過激分子」と紹介されている。彼の肩書きは南労党済州道党副委員長、南労党大静面委員長、あるいは大静面副委員長と、記録物によって異なる。

 出獄後イ・シンホは公開的な活動を中断して主に自宅で過ごした。日帝時代からの酒類卸売業が生計手段だった。彼が出獄した翌年の1948年4月3日、夜中の2時、漢拏山麓のオルム毎に上がった烽火を合図に、南労党は済州島内11の警察支署を襲撃した。警察官4人、右翼人士など民間人8人、武装隊2人が死亡するという人命被害が発生した。

 「イ・シンホはイ・ドイルの漢南焼酎工場の酒類卸売権を持っていた。時々巡査たちがやってくると、酒も一緒に飲み交わす方で。 私の家と近いので時々訪ねたが、行ってみれば、ひげも剃らずに本を読んで過ごしていた。一緒に話してみれば、武装闘争については賛成していなかった。あの事件は長くは続かないだろうと言っていた。 3日(1948年4月3日)の爆弾事件が起きたときには病院に入院していた」(イ・ウンバン『4・3事件の真相』)

 大静面は4・3事件の要注意地域だった。闘争を指揮した遊撃隊総司令官キム・ダルサム(1925~50?)が大静中学の社会科教師だったからだ。イ・シンホをはじめ住民たちは、慕瑟浦(モスルポ)支署に何度も呼び出された。イ・シンホが死亡するしばらく前に一緒に支署に連行されたコ・チュンオン氏(90)に3月5日大静邑の自宅で会った。耳の遠いコ氏に紙に書いて質問し、コ氏は口で答えた。

 「西北(ソブク)青年団(解放後に北から南にやってきた青年たちが1946年に立ち上げた右翼団体)がいきなり捕まえていく。家にいたら出て来いと言うので行ってみると、三十人ほどがめちゃくちゃに殴られていた。私の前の奴は棍棒で叩かれた。『お前、山に行って来ただろう』と言われながら。 私の番になって、(西北青年団員に)一撃蹴られて「ウッ!」と声を上げた。そのとき、地位の高い特攻大将が『取調べ中止!』と言って集合させた。特攻大将が警視だ。『イ・シンホって誰ですか。出て来なさい』と言うので、イ・シンホが(縄に縛られていて)『出て行けません』と言った。 すると、『あなたがイ・シンホですね。名前はよく聞きました。立法議員に選出されたそうだが。(1946年8月24日、朝鮮過渡立法議院の創設に関する米軍政法令第118号が発表され、全国で90人が選出された。イ・シンホは選出直後に辞任した。) あなたのような人は大韓民国のために一緒に努力しましょう』と言った。 懐柔し、タバコもくれた。次の日、家に帰してやった。そしていくらも経たずに銃殺された」

 南だけの単独選挙の輪郭が明らかになった1948年2月頃、米軍政と左派は激しく対立した。同年1月、組織名簿が流出して致命打を受けた南労党済州道党は1・22検挙事件などを経て、世代交代とともに路線変更の岐路に立たされることになる。危機説を掲げた強硬派が4・3事件が起こる前に党組織を掌握した。日本植民地時代に社会主義抗日運動をしていた壮年層から、若くて急進的な新進勢力への交代があった。新進勢力のリーダーは23歳の青年キム・ダルサム。本名はイ・スンジンで、彼は義父カン・ムンソクが使っていた仮名キム・ダルサムを受け継いだ。 1947年3・1記念行事の当時、南労党大静面組織部長だったキム・ダルサムは以後、済州道党組織部次長、組織部長として急浮上した。武装闘争について党指導部内ですら時期尚早論と強行論が対立していた。武装闘争は済州朝天邑新村里で決定された。 いわゆる「新村(シンチョン)会議」だ。 新村会議に出席して武装闘争に参加し、日本に逃れて東京に住んでいたイ・サムリョンは当時の状況をこのように証言する。

 「武装蜂起が決定されたのは1948年2月末から3月初め頃のことだ。新村で会議が開かれたが、19人が民家に集まった。 この席でキム・ダルサムが蜂起問題を提起した。慎重派はチョ・モングと城山浦(ソンサンポ)出身の人など7人だったが、我々は何も持ってないのだから、もう少し状況を見守ろうと言った。強硬派は私とイ・ジョンウ、キム・ダルサムなど12人だ。 キム・ダルサムは20代だったが、組織部長として実権を握っていた。 そしてアン・セフン、オ・デジン、カン・ギュチャン、キム・テクスなど壮年派はすでに服役中か、逃避状態だった。 (中略)とにかく、我々の知識と水準はその程度でしかなかった。 (中略)キム・ダルサムは自分が軍事総責任者を引き受けると言って日付を通知した。事件勃発の10日ぐらい前に日が決定された」(済州4・3事件真相調査報告書)。

 当時大静面には、日本植民地時代に社会主義運動をしていたイ・シンホの同僚たちはもういなかった。南労党大静面の責任者だったイ・ウンバンは4・3事件後、3カ月ほど故郷にいたが、松岳山(ソンアクサン)付近のカルモッ海岸から発動機船に乗って釜山へ、そして日本へ密航した。 イ・ウンバンの隣に住んでいてイ・シンホなどに社会主義の影響を与えたオ・デジン(1898~1979)は、4・3当時は忠清南道江景に逃避していたと伝えられており、1949年に日本に向かった。

 「父に対する拷問はひどいものでした。母に言われて父に食事を持って行くのは私の役目でした。行って見ると、拷問はあまりにもひどいものでした。村の人たちが日本に行こうと言うと、父は悪いことをしたわけでもないのにどこへ行くというのかと言って、家にいました」(1993年6月、済州4・3研究所機関誌『4・3 長程』第6号に掲載されたイ・シンホの次女の発言)

社会主義は済州の主流だった

 1948年、南労党の活動は米軍政から“事実上”非合法化され、地下運動として維持されていた。 しかし明白なのは、当時南労党もまた表面的には合法政党であったという事実だ。朝鮮半島問題を国連に上程した米国は、いかなる政治集団も制約なしに活動できるという格好を維持していた。 1948年1月23日、ソウルに入ってきた国連韓国臨時委員団が南北選挙協議の対象に、南から6人、北から4人を指名し、この中に南労党指導者許憲(ホ・ホン)と朴憲永(パク・ホニョン)を含めた。済州道で南労党員名簿が流出し大量検挙された1948年の「1・22検挙事件」発生から1週間後の1月30日。キム・ヨンベ済州警察監察庁長と『済州新報』記者の一問一答を見て見よう。

記者:被検挙者の数は? 警察の方針は?

キム・ヨンベ庁長:これらは一部の不穏分子の扇動に惑わされ付和雷同したものであって、改悛の情が顕著な者に対しては警察が雅量をもって臨んでいる。警察は南労党に加入した者を弾圧するのではなく、彼らの非合法的行動に鉄槌を下すのだ。

 解放後に南で組織された左派政党は、朝鮮共産党(1945年9月)、朝鮮人民党(1945年11月)、南朝鮮新民党(1946年2月)の3政党だ。朝鮮共産党は朴憲永、人民党は呂運亨(ヨ・ウニョン)、新民党は白南雲(ペク・ナムン)が主導した。 1946年11月、左派3党の合同により南朝鮮労働党(南労党)が結成された。『独立新聞』などは11月23日に開かれた南労党結党式に、代議員558人のほか、米軍政最高責任者であるジョン・ハッジ中将の代理としてボブフェロ少佐、米軍防諜隊(CIC)関係者、米国の新聞記者と国内取材陣が集まったと報道した。

 済州には、日帝時代からの社会主義運動の根が強く引き継がれていた。 4・3特別法および政府の真相調査報告書は4・3事件の始まりを1947年3月1日と見ているが、この頃、在韓米陸軍司令部の日次情報報告書にはこう記録されている。 「1947年3月25~26日。2件の防諜隊報告書によれば、済州道の右翼、大韓独立促成国民会と韓国独立党済州道支部は、組織も貧弱で資金も不十分だ。両党は道全体にわずか1000人の会員がいるだけで、左翼人士たちの激しい反対で政治的活動が困難な状況にある。済州道の左翼に関する多くの報告書によれば、左翼人士は済州道人口の60~80%に達している」。当時、済州道民は28万人余だ。

 選挙結果もまた、済州道は他の地域と違っていた。 1946年8月24日、朝鮮過渡立法議院創設に関する米軍政法令第118号が発表された。立法議員90人のうち半数は民選議員で、残りは米軍政最高責任者であるジョン・ハッジ中将が任命した。 1946年10月31日、民選立法議員選挙が行なわれた。「立法議員選挙で右翼が勝利」。 UP通信を引用した『漢城(ハンソン)日報』の関連記事だ。韓国民主党15人、大韓独立促成会14人、無所属12人、韓国独立党2人、人民委員会2人。人民委員会を除いては右翼の勝利だった。 ところで、この2人の人民委員会出身者はいずれも済州地域だった。当時、南済州郡の面代表14人がイ・シンホを選出したのだが、彼は辞任してしまった。人民委員会は当時公式の政党ではなく、住民が構成した団体だ。済州道で南労党は1946年12月に結成されており、立法議員選挙当時は出馬できなかった。

 済州島の社会主義的性向は日本植民地時代から続いている。 1932年済州の海女たちが日本人の島司(道知事)の車両を包囲して、500人余が細花(セファ)駐在所を包囲すると、日本は背後勢力を探り始めた。背後勢力として済州島ヤチェイカ(共産党組織の基本単位である細胞のロシア語)が眼を付けられた。当時、ヤチェイカ組織40人余りが拘束され、光州(クァンジュ)地方裁判所木浦(モッポ)支所で裁判を受けた。 イ・シンホは当時、懲役2年を言い渡された。

済州市奉蓋洞の済州4・3平和公園にある行方不明者の標示石の様子

激しい理念葛藤、碑文の書かれていない碑石

 2008年に建立された済州市奉蓋洞の4・3平和記念館には、碑文を刻めずにいる碑石が横たわっている。白碑だ。名付けられずにいる歴史的な碑石の前で、案内文を読んでみる。「蜂起、抗争、暴動、事態、事件などと様々に呼ばれてきた済州4・3は、いまだに正しい歴史的な名前を得ていない。分断の時代を越えて南と北とが一つになる統一のその日、真の4・3の名前を刻むことができるであろう」。 2003年に政府が採択した真相調査報告書でも、理念的性向を表わさない単語である「事件」と書かれている。 4・3事件の被害規模は2万5000~3万人と推定される。当時の済州島人口の約10%だ。 4・3委員会が確定した犠牲者の加害者別統計を見れば、警察・軍人・右翼団体などの討伐隊(84・3%)、南労党武装隊(12.3%)、不明(3.4%)の順だ。

 済州は世界史的渦に巻き込まれていた。 4・3事件は第2次世界大戦終了後、ドイツと日本に共同対抗した米ソ間の協力が終了し、資本主義と共産主義の体制対立が始まった背景の中で発生した。国内的には一時的な米軍政下での聞き慣れない左右イデオロギーおよび統一国家に対する意見対立が渦を巻き、最も弱い輪である 済州で建国を控えて物理的衝突が起きた。 島という限定された空間で、血縁共同体の中で報復が起きて悪循環が繰り返され、被害が拡大された。歴史は過ぎ去った時間に対する記憶だが、加害者が誰であるかによって、同じ島の中で4・3を眺める視点、歴史観が異なる。 ヤン・シンハ大静邑誌編纂委員長は「父母が討伐隊によって亡くなった遺族は軍人・警察官の位牌があるので4・3平和公園に行きにくく、武装隊によって亡くなった遺族は、南労党員の位牌のために平和公園に行くことをためらう」と説明した。

 4・3特別法は金大中(キム・デジュン)政権時代だった2000年に制定され、盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権の時に真相調査報告書が確定されるなど、活気を帯びた。歴史との和解が強調された。鎮圧作戦に参加した軍人と警察官を犠牲者と見ることができるかどうかが議論になると、4・3委員会は2006年4月21日、法制処に質疑した。法制処は「特別法で済州4・3事件を住民が犠牲になった事件と規定しているが、犠牲者を住民に限定してはいない。犠牲者を可能な限り広く認めることが妥当であり、武力衝突と鎮圧過程で犠牲になった軍人や警察官も解放前後の混乱したイデオロギー対立の過程で発生した犠牲者に含めることが同法の趣旨に符合する」と回答した。 4・3委員会は討伐に参加した大韓青年団など、国家有功者519人、警察官91人、軍人28人を犠牲者として追加認定した。

 一方、憲法裁判所は2001年、4・3特別法の違憲確認審判請求を却下し、「(1)武装遊撃隊に加担した者の中で首魁級の共産武装兵力指揮官又は中間幹部として軍と警察の鎮圧に主導的・積極的に対抗した者 (2)冒険的挑発を直接・間接的に指導又は指示したことで、4・3事件勃発に責任ある南労党済州道党の核心幹部 (3)その他、武装遊撃隊と協力した鎮圧軍や警察官及びその家族 (4)制憲選挙関与者等を殺害した者 (5)警察官などの家屋と警察官署など公共施設に対する放火を積極的に主導した者」を犠牲者の除外対象とすべきだと明らかにした。 2002年3月、4・3委員会は憲法裁判所の基準を狭めて「(1)済州4・3の勃発に直接的責任のある南労党済州道党の核心幹部 (2)軍と警察の鎮圧に主導的積極的に対抗した武装隊首魁級は除くものの、その行為を客観的に立証する具体的かつ明白な証拠資料がなければならない」と決定した。

“アカ”の命を救ってくれた支署長はどうするのか

 ところが、加害者と被害者、加害者でありながら被害者でもある籍集合の部分を区分できるだろうか。除外基準が南労党員または警察などの職位になり得ようか。社会主義思想を持っていたが武装闘争には反対した南労党員、警察・軍人だったけれども虐殺には同意しなかったり、上部の指示によって仕方なく殺戮に参加して精神的トラウマを負った人たちは、加害者だろうか、被害者だろうか。モスル浦にはイ・シンホの寂しい墓碑も、南労党員名簿に載った大静面の住民たちの調書を虚偽作成して命を救ったモスル浦支署長ムン・ヒョンスンの功徳碑も、共存している。

 歴史が過去と現在の絶え間ない対話なら、現在の観点で過去を認識・評価すると同時に、過去に遡って、その中に置かれた事件を認識・評価することも均衡的な歴史感覚と言えよう。 時代状況とともに、個人の生き方を眺望することも実体的真実に接近する一つの道だ。個人の歴史が集まって時代と歴史を成す。議論が起きている103人の不良位牌リストに対する判断もまた、総合的かつ均衡的考察の中で行われなければならない。 103の位牌には103人のそれぞれ違った生き方がある。人間を判断するのに、いくつかの物差しの書かれた紙一枚で審判することは、あまりにも軽い。

文:西帰浦、大静邑/パク・ユリ記者、写真:済州道庁・米国国立文書記録管理庁・済州4・3平和財団提供、グラフィック:ソン・グォンジェ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/684407.html 韓国語原文入力:2015-03-29 10:24
訳A.K(13556字)

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