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[現地ルポ]「4・3不良位牌」と攻撃されるイ・シンホ…彼は不良な犠牲者か (1)

登録:2015-05-01 20:29 修正:2015-05-02 06:34
4・3特別法への反撃、再審査を巡る議論
その主人公、南労党幹部イ・シンホ
済州4・3事件に連累して銃殺された済州島の代表的な社会主義政治家イ・シンホ(1901~48)の唯一の写真 //ハンギョレ新聞社

 済州4・3事件に連累して銃殺された済州島の代表的な社会主義政治家イ・シンホ(1901~48)の唯一の写真。家族たちが忘れられることを望んでいる彼の名前を、見知らぬ人たちが呼び起こす。彼は済州島の南労党(南朝鮮労働党)幹部であり、政府が指定した4・3犠牲者だ。軍人と警察官(と推定される)の銃弾に倒れた48年間の彼の人生を、一部の人々は「4・3事件の不良位牌」と定義する。保守団体は、犠牲者1万4231名のうち一部が加害者から犠牲者に化けたために再審査しなければならないと主張する。今年初め、チョン・ジョンソプ行政自治部長官と元喜龍(ウォン・ヒリョン)済州道知事が犠牲者再審査について言及し、論議が再び浮上した。

 “不良位牌”と呼ばれる犠牲者103人のうちから、一人の人物を覗いてみた。 時代と歴史という大きな裾野からイ・シンホを抽出し、その足跡をたどってみた。済州島という空間的背景と朝鮮半島情勢、世界史的脈絡を探ってみた。日帝強占期に抗日運動をしていたイ・シンホは、新しい国家の建設を夢見たが挫折した。 彼は、米軍政期の1947年3月1日、3・1記念行事を指揮した疑いで投獄される。南労党の世代交代過程で、急進的な武装闘争の系列によって押し出された。 歴史が過去と現在の絶え間ない“対話”であるならば、現在の観点から過去を認識・評価すると同時に、過去に遡って行って、その中に置かれた事件を認識・評価することも均衡的な歴史感覚と言えよう。

▽済州島の南西端には、慕瑟浦(モスルポ)の港がある。特産品であるブリと付近の馬羅島(マラド)観光で有名な地域が西帰浦(ソギポ)市大静(テジョン)邑モスル浦だ。 解放直後、米軍政期の1947~48年、そこには互いに異なるイデオロギーを持った人たちが暮らしていた。いずれも 4・3事件の主要人物だ。武装闘争を指揮した遊撃隊総司令官キム・ダルサム(本名イ・スンジン)、社会主義者だったが武装闘争には否定的だった南労党幹部イ・シンホ、“アカ”を捕えて殺すことを躊躇したモスル浦支署長ムン・ヒョンスン。 イ・シンホを中心に、彼らの人生を覗いてみる。

4・3が進行中だった1948年7~8月に討伐隊が住民たちと話している場面を米軍が撮影したもの。真ん中のカルオッ(チェジュ特有の染色による衣類)を着た住民は中山間の村の居住者と推定される//ハンギョレ新聞社

いきなり銃殺された彼、社会主義者だったから被害者でないとは…

 1948年11月20日(旧暦10月20日)、済州道モスル浦支署では朝早くから南労党済州道党(訳者注:韓国の政党組織は、中央党、道党、市党、郡党、面党のようになっている)の副委員長イ・シンホ(1901~48)を捕えて行った。済州4・3事件の発生後、自宅で本ばかり読んで過ごしていたイ・シンホの家には警察官たちがよく訪れた。米兵がやってきて動態把握をしたり家宅捜索もして、イ・シンホが自宅で読んでいた本も押収された後だった。いつものように警察官について支署に出かけたイ・シンホは、午後になって帰ってきた。家の門を出て道路一つ過ぎると、手が届くくらいに慕瑟浦支署は近かった。 その日疲れた顔で戻ってきたイ・シンホは、家の手すりにもたれるようにしてぐったりと座り込んだ。彼は長女を呼んで言った。「のどが渇いた。水をくれ」。 続いて軍人と警察官と思われる二人の男がイ・シンホの後から入ってきた。二人はイ・シンホを庭に引き出して銃を撃った。娘は、父が銃に撃たれて死んでいくのを目の当たりにするしかなかった。四十八歳、イ・シンホの生涯はこうして閉じられた。

 日本の植民地時代に抗日運動をし、村で尊敬を得ていたイ・シンホが死んだという話は村中に広がった。村の人々は安心して眠ることができなかった。それ以来、何かといえば銃殺だった。朝起きてみれば、誰かが死に、誰かが銃殺されていた。イ・シンホの死後、4日目に彼のいとこも銃殺された。家族たちは葬儀も行なえなかった。息を殺すようにして、遺体を仮埋めのような形で埋めた。 12歳年下だった妻のソン氏は、子供を食べさせるために小さな店を始め、子供たちは恐怖の中で数年を過ごした。 1961年冬、妻ソン氏はイ・シンホが死亡した年令と同じ48歳で亡くなった。 イ・シンホの葬儀は妻が死亡してから初めてまともに執り行なわれた。名前の三文字、生まれた日、死亡した日。石碑は短く書かれた。娘三人と息子一人。残された子供たちは、一人二人と故郷を離れた。(済州4・3研究所機関誌『4・3 長程(チャン・ジョン)』第6号参照、1993年6月発行)

 イ・シンホが埋葬された場所は西帰浦市大靜邑下モ里の大静女子高等学校の東側だ。済州島の南西端にある慕瑟浦の港から海風が吹いてくる松林。ノルン岬と呼ばれる松林に彼は埋葬された。ハンギョレはイ・シンホの4人の子女のうち3人と接触した。 「(記者と会うこと、または父に関する記事を)望んでいない」「(父について)覚えていない」という答えが返ってきた。早春、大静女子高の周りには水仙が咲き始め、寂しい松林を慰める。

文:西帰浦、大静邑/パク・ユリ記者、写真:済州道庁・米国国立文書記録管理庁・済州4・3平和財団提供、グラフィック:ソン・グォンジェ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/684407.html 韓国語原文入力:2015-03-29 10:24
訳A.K(13556字)

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