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[ベトナム戦被害者からの手紙]子供たちに希望の持てる世の中を残したくありませんか

登録:2015-04-28 10:10 修正:2015-05-01 19:04
虐殺生存者のウンウイェントン・ロンさんがベトナム戦元兵士に送るメッセージ
4月4日、京畿道光州市のナムヌの家を訪ねたウンウイェントン・ロンさん(右)が慰安婦だったお婆さんから腕輪を受け取っている コ・ギョンテ記者//ハンギョレ新聞社

平和博物館の招請で今月4日に韓国を訪問したベトナム戦民間人虐殺生存者のウンウイェントン・ロンさん(64)が手紙を送ってきた。イベントの度にベトナム戦に参戦した元兵士が現れ「虐殺は捏造」と叫びながらデモをした。この手紙はそんな彼らに送られたものだ。

 皆さんの姿を少し離れた場所から見ることができました。戦争が終わって40年が過ぎた今、ソウルの中心で、いまだに軍服を着ている皆さんと出会うなど思いもよらないことでした。車から降りて直接会ってみたかったっですが、そんなことが出来る状況ではありませんでした。もしかしたら、私とタン(ウンウイェンティ・タン)さんに会いに来られたのではありませんか? 警察の身辺保護を受け無事にホテルにたどり着いた時、こう考えました。

 「戦争は過酷だけど、平和も過酷なものだ!」

 私は泣くまいと努めました。だけどタンさんは証言をする度に涙を流しました。女性だからでしょうか? 被害に遭った時、私は15歳、タンさんはまだ8歳でした。8歳の子供になにが分かるか、虐殺はみんな作り話だと皆さんが言っていたという話も聞きました。タンさんはその日のことを、今でも生々しく記憶しています。息をする度にパッと血を吐きだす5歳の弟、その弟を助けることもできず泣いていた8歳の少女。銃に撃たれずるずると出てくる腸を握りしめ母親を探し回った日を、どうやって忘れることができるというのですか。

 韓国軍の虐殺で、私は母と妹を失って孤児となり、タンさんは母、姉、弟、叔母、いとこの家族5人を失いました。そして私たちは一生、失った家族を思い、深い苦痛の中で生きてきました。そして韓国に来て、まさに心臓から出てくる話を伝えることにしたのです。

 私たちが突然ソウルに現れ、とても落ち着かなったことでしょう。実は、韓国軍の参戦元兵士もベトナムにたくさん訪ね、多くの元ベトコン戦士もソウルを訪問し、当時は互いに銃口を向けた人どうしの出会いの場を得ることができました。40年という歳月は、かつての敵が互いに抱き合ってもおかしくないほど、長い時間だったのです。しかし兵隊ではなかった私たち民間人の虐殺被害者と参戦元兵士が、互いの傷を労りあうには、さらにどれだけ長い歳月を必要とするでしょうか。

枯葉剤戦友会会員約300人が7日、ソウルの曹渓寺前で集会を開き、ベトナム戦民間人被害者の記者懇談会が開かれたことに対し、「ベトナム戦参戦勇士が侮辱された」で主張してデモを行っている //ハンギョレ新聞社

 私は韓国軍の兵士たちはベトナムに1年余り駐留したと聞いています。70歳にもなれば、人生の中での1年はさほど長い時間ではなさそうです。ところが、ベトナム戦終戦40年を迎えて韓国に訪ねてみると、その時の若い韓国軍兵士はまだ遠いベトナムのジャングルの中をさ迷っているようでした。私たちはその時すぐに、この戦争を終わらせています。私は心より、皆さんが心の中に閉じ込めたこの戦争を、はやく終わらせることを祈ります。

 タンさんの叔父は(韓国の同盟国だった)南ベトナムの軍人でした。そして、その村で虐殺された人々もほとんどが南ベトナム兵士たちの家族でした。この時死んだタンさんの弟は5歳になったばかりです。ベトナム中部の各地にある民間人虐殺慰霊碑には、1、2歳の赤ちゃん、名前もつけられていなかった生まれたばかりの赤ちゃんの死が、刻まれています。私たちのイベント会場の前で、皆さんのうちの一人が報道機関とのインタビューで答えた内容を伝え聞き、私は衝撃を受けました。敵軍の家族も敵軍だと言っていたからです。だったら日本が攻め込んできた時、対抗して戦った義勇兵や独立軍の家族を日本軍は皆殺しにしてもかまわないということなのでしょうか?

 辛かったのかもしれません。戦争が私とタンさんの人生を徹底的に壊してしまったように、この戦争に皆さんの人生も揺さぶられてしまったのでしょう。私は皆さんを含む韓国の人々と平和を話し合うために訪ねたのであり、復讐のためでもなく、ましてや皆さんを非難するためでもありません。私は皆さんもベトナム戦争の被害者だと考えます。多くの韓国軍兵士が貧困のために、金を儲けるために他国の戦争に参加したと聞きました。その時の皆さんはすべすべしたうぶげが残る20歳そこそこの青年だったことでしょう。他所の国の見慣れぬジャングルはどれほど怖かったかしれません。戦争は青春を耐え抜くにはあまりに過酷なものだったはずです。

 私の体験では、苦痛は心の中に仕舞いこむより、外に投げ出すことで気持ちが楽になるようです。遠巻きに見た皆さんは、何かとても腹立たしそうに見えました。皆さんも心の中にあるシコリを取り除いてください。そして、皆さんの政府が皆さんの苦痛を聞いてあげ、痛みを慰めてあげられたらと願います。

 韓国にきて私たちが初めて訪ねた場所は、日本軍慰安婦だったお婆さんたちが暮らすナムヌの家でした。私たちを招いた平和博物館から、ベトナム戦被害者のために使ってほしいと日本軍慰安婦だったお婆さんたちが出してくれた寄付から始まったという話を聞いて、本当に驚きました。同じ戦争の被害者だからなのか、言葉を必要としませんでした。ただ手をとり抱き合い、背中を撫でるだけで、信じられないほど多くのことを感じとることができ、手榴弾の破片でずっと苦しめられてきた体の痺れも起きなかったのです。傷ついた人どうし、より強く、しっかりと手を握りあえたらと思います。韓国の多くの参戦元兵士が枯れ葉剤の苦痛を受けていると聞きました。ベトナムにも400万人の枯れ葉剤患者がいます。

 今回、迷彩色の軍服を着て私たちを迎えた元兵士もいたけど、目の前で跪き言葉も出せなかった参戦元兵士もいました。そして私たちのために、私たちの話を聞くために駆け付けた数多くの韓国の市民がいました。韓国は私にはとても恐ろしい国でした。でも実際に行ってみると、そこは会いたい友人がいる、心温まる、思い出多き国に変わりました。私には、より多くの被害者が韓国を訪問することになればいいという希望が生まれました。

 親を失った私を育ててくれたのは村の人々でした。戦争で両親を失った子供、子供を失った両親が互いを労わりながら生きてきました。私を育ててくれた村の人々が訪ねてきたら、どうか温かく迎えてあげてください。彼らも虐殺の被害者です。皆さんが目を背けたくても、虐殺は厳然たる事実です。私やタンさん、そして数多くの被害者がその証人です。

 私も波瀾万丈だった人生を整理すべき年齢になりました。考えてみると参戦元兵士も私と年齢の差があまりありません。 戦場でないところで私たちが会っていたら、兄弟のように過ごせたかもしれません。私にしろ皆さんにしろ、人生の終盤に差しかかった境遇にあるのだから、私たちの若い時期を一度振り返ってみてもいいと思います。私たちは過去の傷を癒し、私たちの子供や孫たちに、より平和で、より良い世の中を残すべきではないでしょうか?

ベトナムのトイビンでウンウイェントン・ロン

韓国語翻訳ク・スジョン(社会的企業アマブ本部長)

(お問い合わせ japan@hani.co.kr )

韓国語原文入力:2015-04-27 18:54

https://www.hani.co.kr/arti/opinion/because/688643.html 訳Y.B

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