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[ルポ] 訪韓したベトナム戦争虐殺生存者と過ごした一週間

登録:2015-04-12 08:35 修正:2015-04-12 08:39
「私たちは心臓で話をしているのです」

1975年に終戦を迎えたベトナム戦争で延べ32万人を派遣した韓国軍は、9000人に及ぶベトナム民間人を虐殺したという疑惑に包まれています。この虐殺から生き残った2人が、光復(解放)70年、ベトナム戦争終戦40年を迎え初めて韓国を訪れました。訪韓中の彼らの日程は、彼らが生きてきた人生同様に順調なものではありませんでした。彼らの訪韓に付き添ってみました。

ベトナム戦虐殺生存者タンさん(後列左)とロンさん(後列右)が8日、ソウル日本大使館前の「水曜集会」に参加し、慰安婦被害者のキム・ボクトンさん(左)とキル・ウォンオクさんを慰め共に立っている 写真カン・ジェフン先任記者//ハンギョレ新聞社

 ベトナムには憎悪碑、韓国には記念碑
 「韓国軍人も戦争被害者だと思う」
 行事会場を取り囲む枯葉剤戦友会を見て
 「真実を認めず心が痛む」
 慰安婦のお婆さんと分かち合った共感と痛み

 8日午前、ソウル鍾路区堅志洞にある社団法人平和博物館のギャラリー「スペース99」で、光復70年、ベトナム戦終戦40年に合わせて開幕した写真展「一つの戦争、二つの記憶」に招待されたウンウイェントン・ロンさん(64)とウンウイェンティ・タンさん(55)は複雑な表情をしていた。写真展開幕を祝うためのレセプションが前日になって突如取り消されたうえ、自分たちの人生を根こそぎにした戦争が韓国では“記念”すべきことと記憶されている事実に接したためだった。

 写真展を開いた写真家のイ・ジェガプ氏が彼らを展示場の片隅の小さな部屋に案内した。韓国各地にある戦争記念塔の写真が映写機を通して暗い天井に投影されていた。ベトナム各地に韓国軍を憎む60余りの憎悪碑が建てられているのとは対照的に、韓国の領土では100余りの参戦記念碑があるという説明が後に続いた。

 「韓国ではベトナム参戦を“記念”しています。韓国がこの戦争を記憶するやり方と、ベトナムが戦争を記憶するた差を見せてあげたかったのです」。過去7年間、戦争碑石に関する作業を続けてきたというイ氏は、展示に関する説明を終えた後、彼らに「応援できりうことがあれば嬉しい」と言って笑った。ロンさんとタンさんも握った拳骨を振って見せ、イ氏とともにしばし明るい表情になった。ロンさんは韓国とベトナムの市民の集いでプレゼントされた丸いひさしがついた帽子をかぶっていた。帽子を受け取る時、ロンさんが「大事な席で使う」と言っていた帽子だ。

 2人と共に訪韓したベトナムのホーチミン市戦争証跡博物館のフイヌンオク・ポン館長(53)は「私たちの博物館にも辛い写真が展示されている。戦争の話をずっと聞かなければならなかったイ氏も辛かったでしょう。私たちは韓国軍人も戦争の被害者だと考える。事実を真正面から認めて謝る時、彼らの気持ちも楽になるでしょう」と語った。前日、近くの曹渓寺一帯を取り囲んで平和博物館の写真展開幕を阻んだ「大韓民国枯葉剤戦友会」など300人余りの参戦軍人を念頭にした言葉だ。軍服とサングラスをかけ勢ぞろいした参戦軍人らは、3、4時間軍歌を歌ったり声を荒げ、自分たちを良民虐殺犯と罵倒していると抗弁した。開幕の行事は取り消しとなり、ロンさんとタンさんは曹渓寺近くで非公開で開かれた記者懇談会で「真実を知らせたかっただけなのに、彼らがこの事実を認めようとしないことに心が痛む」と涙声で話した。

 展示会場を見ている間、平和博物館のソク・ミファ事務局長が届いたばかりの文字メッセージを見せた。翌日に韓国中部の大邱にある慶北大学で予定されていた懇談会の場所も変更されるかも知れないという内容だった。「学校側が平和博物館を利敵団体と言っているらしい」。博物館関係者たちの表情が曇った。

ベトナムのクァンウンアイ省にいるパンティプオンお婆さん(65)はベトナム戦争当時、韓国軍が投げた手榴弾で片足を失った。ベトナム戦争の痕跡を記録した写真家イ・ジェガプ氏の写真展で紹介された作品。 イ・ジェガプ写真家//ハンギョレ新聞社

日本軍慰安婦お婆さんたちとの出会い

展示会場はベトナムと韓国に建てられた戦争関連の石碑、民間人虐殺状況を証言するベトナムの人々の姿で満たされた。人々の写真の前には、くすんだビニールが日除けのように設置されていた。イ氏は「ベトナム戦争当時、米軍は死体を処理する時に主にビニールを使った。彼らにとりビニールは米軍の非常食だったCレーション同様、戦争を思い出させる媒介物」と語った。くすんだビニールの向こう側にある写真の中には、深い皺に窪んだ眼をしたあるベトナムの老婆が、悲しみが込み上げ涙が溢れ出そうな顔で幼い孫の顔と向き合っていた。伝えたいけど、伝えきれそうにないどんな言葉より雄弁だった。

 「坊や、この話を絶対に忘れないで。韓国の軍人たちが私たちを爆弾の窪みに追い込んで、みんなを撃ち殺したのよ。坊やが寝ていても、この話だけは忘れないで」。ロンさんとタンさんが写真展の後で参加した「水曜集会」でプラカードに書かれてあった文だ。伝えたいけど、伝えることができなかった老婆の話だったのではなかろうか。

ベトナム戦争で韓国軍に家族を奪われ負傷したウンウイェンティタンさん(左)が8日、ソウル・鍾路区の日本大使館前で開かれた「日本軍慰安婦問題解決のための定期水曜集会」に参加し、慰安婦被害者キル・ウォンオクお婆さんと挨拶を交わしている //ハンギョレ新聞社

 韓国挺身隊問題対策協議会は毎週水曜日、ソウル鍾路区中学洞の駐韓日本大使館前で水曜集会を開く。この日は150人余りの参加者が集まった。ロンさんとタンさんは写真展観覧を終えた後、近くの集会場まで歩いて行き、キム・ボクトンお婆さんとキル・ウォンオクお婆さんの後ろに立った。カメラマンが集まり二人の表情は硬くなったが、すぐに決然としたものに変わった。誰かが気楽な表情を求めると、その時になって初めて軽く笑った。ユン・ミヒャン挺身隊対策協代表がマイクをとり、「再びどんな戦争でも、性的暴行被害者や民間人虐殺被害者を出してはならない」と叫んだ。タンさんは「お婆さんたちと韓国の友達にご挨拶します。私の名前はウンウイェンティ・タン、韓国軍による民間人虐殺の生存者です。虐殺があった時は8歳でした」と語りかけた。タンさんが発言する度に、集会参加者は申し訳なさそうにため息をついた。タンさんは集会が終わった後、車に乗ろうとするお婆さんを助けてあげた。

 ロンさんとタンさんが日本軍慰安婦被害者のお婆さんたちと会うのはこの日が初めてではなかった。訪韓初日、宿で旅装を解くとすぐに訪ねた場所が、お婆さんたちが暮らす京畿道広州市の「ナムヌの家」だった。訪韓初日の4日午後遅くにナムヌの家に着いた彼らは、平和博物館の共同代表でもあるイ・オクソンお婆さん(88)をはじめ7人のお婆さんと会った。

 ロンさんは1966年の2月から3月に1004人が亡くなったヴィンディン省トイビンサ虐殺の生存者だ。虐殺で母親と妹を失い、孤児として育った。タンさんは1968年2月12日、住民74人が犠牲になったフォンニィ・フォンニャット村虐殺から生き残った。その日、母親、弟、姉、叔母、甥など5人の家族を失った。彼らの事情を聞いたユ・ヒナムお婆さん(87)は「戦争被害者の苦しさと悲しみを本当に理解できる人はあまりいません。同じ被害者として会えて本当にうれしい」と話した。加害者が韓国軍と日本軍の違いがあるだけの2人の被害者はすぐに共感でき、痛みを分かち合えた。

初めての記者会見とインタビュー、そして慰労

6日午後、国会政論館でベトナム民間人虐殺被害者のウンウイェントン・ロンさん(右端)が当時の状況を証言している。左端にいるのは一緒に訪韓した被害者のウンウイェンティ・タンさん。 キム・ギョンホ記者//ハンギョレ新聞社

 国会で記者会見開き虐殺を証言
 母親の話をする時は言葉を続けられなかったが
 「参戦軍人たちを許したい気持ち」
 良心ある韓国人に慰労された
 「もう韓国人が恐ろしくはありません」

 訪韓3日目の6日、ロンさんとタンさんは韓国の国会を訪れた。

 「50年近い歳月が流れたけど、残忍な虐殺と苦痛な悲鳴で記憶される虐殺の声は、私の頭の中で生々しく残っています。その日の記憶を再び思い出すと半月は寝れずに体が痛みます。だけど、その日を記憶して話を伝えることが、私が生きている最後の役目だと感じています」

 国会議事堂政論観でロンさんとタンさんは今まで数百回と繰り返し話してきた虐殺当時の状況を証言した。ベトナムに自分たちを訪ねてきた他でもない韓国人に、しかも韓国のの公開の場でその話をするのは初めてだった。辛い証言に対する反応は翌日にすぐ伝えられた。

枯葉剤戦友会会員約300人が7日、ソウルの曹渓寺前で集会を開き、ベトナム戦民間人被害者の記者懇談会が開かれたことに対し、「ベトナム戦参戦勇士が侮辱された」で主張してデモを行っている //ハンギョレ新聞社

 7日午後、曹渓寺で開く予定だった写真展の開幕行事が取り消しになった。彼らはその代わり、泊まっていた近くのホテルの小さな部屋で非公開の記者会見を開いた。ベッドを片付け、他の部屋から椅子を借りてきて、せいぜい10人くらいの取材陣、そいて2人のベトナム人と1人の通訳が座る席を用意した。記者たちの質問が始まる前にロンさんは「出て行ってあの人たちに話したい。記者たちにお話しすれば伝わるのではないか」と急かした。窓の外からは枯葉剤戦友会が歌う愛国歌が聞こえてきた。ロンさんは「参戦勇士に会えば丁寧に挨拶をしようと思う。私がこの席にいるとは思いもよらないことでしょう。韓国国民に挨拶をし、彼らに韓国軍人がベトナムにいた時にどんなことがあったか、率直な心情を吐露したい」と話した。

 窓の外で再び「わあ!」という怒声が響いてきた。ロンさんは「彼らを許す」とも言った。「皆さんが過ちを犯したのは過去の旧制度で起きたことです。皆さんを許す心を十分に持っています。もし皆さんが過去の過ちを直視し、過ちを正したい気持ちがあるなら、私たちは皆さんを十分に理解できます」。枯葉剤戦友会の叫び声は収まる気配がなかった。ロンさんとタンさんのインタビューは彼らが体験した虐殺状況に対する具体的な証言へと続いた。

 「銃声がすぐ近くで聞こえ、村人たちの悲鳴と叫び、叫びが一緒に聞こえてきました。そうするうちに声が聞こえなくなったけど、妹と私を両脇に抱えていた母親が私たちにタオルを巻いてくれました。母親のタオルの暖かい温もりのおかげでお腹がすいていたのも、喉が渇いていたのも分からずにいました」

 ロンさんの母親は虐殺が起きた日、一日中ロンさんと妹を抱いて防空壕の中に隠れていて、午後遅くなって韓国軍に発見された。その後、他の村人と一緒に引きずられて行き、手榴弾を投げつけられ銃で乱射された。母親は下半身が殆どない状態で発見され、妹は頭がひどく崩れてしまっていた。母親の話をする時、ロンさんは目がしらが赤くなったまま話を続けることができなくなった。見守っていたタンさんが腕を支えるとようやく証言を続けた。証言が具体的になると頬が震えだし、眼には涙が溜まった。窓の外ではマイクをとる者の怒鳴り声が響いていた。通訳をしていたベトナムの社会的企業アマプのク・スジョン本部長(49)は「ロンおじさんは今までこの話を数百回してきたけど、母親の話をされる時はいつも話を続けられなくなります」と話した。

枯葉剤戦友会会員約300人が7日、ソウルの曹渓寺前で集会を開き、ベトナム戦民間人被害者の記者懇談会が開かれたことに対し、「ベトナム戦参戦勇士が侮辱された」で主張してデモを行っている //ハンギョレ新聞社

 タンさんも証言を続けた。彼女の左手にはナムヌの家でもらった黄色の腕輪がかかっていた。「迷彩色の服を着た韓国軍が子供たちが入っていた防空壕に手榴弾を投げ込むフリをしながら、出てこいと言いました。出てこなければ投げるということでした。とても恐ろしくて出て行くと、出てきた人たちを1人ずつ撃ちました」。タンさんの兄はその場で片方のお尻が吹っ飛ばされ、一緒にいた叔母は韓国軍の銃剣で刺されて殺された。姉と弟、甥もみな銃で撃たれて殺された。話が進むほどタンさんの涙声での話はむせび泣きに変わっていった。彼女は「その時は8歳でしたが、今でもその日ことを生々しく鮮明に記憶しています」と語った。

 インタビューを終えたこの日の夕方、彼らを慰労する席が用意された。彼らを招請し、ベトナムに行って彼らと会った韓国人が集まる歓迎パーティーだった。旅行の代案学校ロードスコラ、ベトナムを理解しようとする若い作家の集い、ベトナム平和医療連帯、保健医療労組、挺身隊対策協、アジア公正貿易ネットワークなどに属す約100人が招待された。ベトナム戦争に参戦した人もいた。

 作家のイ・ジェガプ氏は「お二人に申し訳ないとお話しできる、そんな場を設けることができたのは幸いなことだと思います。韓国人の中にもこうした良心ある人々が多いことを分かってもらえたら嬉しいです」と述べ、ロンさんは「韓国に来たのはただ共感と平和を分かち合うだためです」と答えた。ク・スジョン本部長は「ロンおじさんは脚に残る手榴弾の破片を除去したけど、常に足の痺れに悩まされてきました。だけど韓国に来てからは痛くないと仰いました。タンさんはもう韓国の人々が恐ろしくないと仰ってくださいました」と紹介した。集まった人たちが席を立って拍手して歓呼した。旅行代案学校のロードスコラのある女子生徒は「母が花になった日」という詩を朗読した。朗読が終わるとすぐタンさんが舞台にあがりその生徒を強く抱きしめて涙を流した。

9日午後、大韓民国枯れ葉剤戦友会大邱広域市支部会員らの慶北大学内での集会。チョン・チュングァン同支部長(73・左側二番目)は「どの国の戦争でも少数の良民は被害を受ける他はない」と話した 写真パク・キヨン記者//ハンギョレ新聞社

枯葉剤戦友会員ら「突撃、前へ!」

 ロンさんとタンさん一行は8日の水曜集会が終わった後、釜山に向かった。この日の夕方に釜山中区の民主公園で、翌日には大邱の慶北大で講演をすることになっていた。枯葉剤戦友会が訪ねる場所にことごとく現れ彼らを出迎えた。8日には懇談会場である釜山の民主公園入口で枯葉剤戦友会釜山支部会員約170人が反対集会を開き、9日には大邱の慶北大キャンパス内で枯葉剤戦友会大邱支部会員40~50人がデモをした。

 「(通訳の)ク・スジョンを放っておいていいのか。殺してしまえ!」「こんな行事を許可した学長は辞職しろ!」

 午後のキャンパスに乱暴な言葉が溢れかえった。見物していた慶北大の学生や教職員が呆れた表情で見守っていた。「大学でこんなことが許可されてもいいのか!」「総学生会は何をしている!」といった叫び声も聞こえてきた。チョン・チュングァン枯葉剤戦友会大邱支部長(73)は「どの国の戦争でも少数の良民は被害を受ける他はない。それでも我々はその時、良民に撤収しろとビラをばら撒き放送もした。残っていた人たちはみなベトコンだ」と言い放った。

ある記者がこう尋ねた。「赤ん坊も死にました。それはどう説明するのですか?」。戦友会の会員らがざわつきだした。「事情も知らないくせになにを言う」。「子供たちはベトコンがいる防空壕に入っていた」。戦友会会員のキム・テボン氏は「このまま入っていこう。我々が入れないよう記者たちが防いでいるんじゃないのか」と言って行事場所へ向かおうとしたが、チョン支部長が「とりあえず待ちなさい」と彼らを制止した。記者たちに囲まれた戦友会会員たちは右往左往した。時々「突撃、前へ!」「自由大韓の懐に!」などと叫んでいたが、いつのまにか陽が沈んでいた。

 行事場所となった講堂には約200人の聴衆が集まっていた。4つの出入口のうち3つは中から錠がかけられた状態だった。予定された時間から15分ほど過ぎてロンさんとタンさん一行が入ってきた。司会者は「外で枯葉剤戦友会員たちが自分たちも家に帰らなくてはならないので名分のために記者たちを排除してくれと言いました。そこで申し上げます。記者たちは出て行ってください。ちゃんと言いましたよ」と冗談を言うと、聴衆から笑いが漏れた。参加者の紹介が終わった後、ロンさんが話し始めた。

 「私はベトナムから来たウンウイェントン・ロンです。話を始める前に一言申し上げたいと思います。今日私が話そうとするのは、私の目で見て、私の耳で聞き、私の体で体験した事実です」

 観衆から拍手が沸き上がった。ロンさんとタンさんが韓国ですごす最後の夜だった。講演会場の外にいた枯葉剤戦友会会員たちはいつのまにかいなくなっていた。ロンさんとタンさんの、すでに数百回も繰り返された話に人々は耳を傾けていた。

 「私は私の心臓で話をしています。歴史の真実を伝えるためです。恨みや憎しみを煽ろうとするのではありません。私は韓国軍の民間人虐殺の生存者です」

 ロンさんはこの日も、母親の死を話すところで涙声になり、話を続けられなくなった。

8日夜、釜山・中区の民主公園の小さな部屋で「ベトナム戦韓国軍民間人虐殺被害者の歴史的証言」懇談会が開かれた。 この日、110席規模の同劇場には約280人の市民が集まった キム・ヨンドン記者//ハンギョレ新聞社

パク・キヨン記者(お問い合わせ japan@hani.co.kr )

韓国語原文入力:2015-04-10 20:31

https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/686392.html 訳Y.B

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