エッフェル塔の職員用ベンチ
韓国から見える人たちに会えば、決まって投げかける質問があった。それは、「韓国のスーパーでは相変らずレジの職員は立って仕事をされていますか?」であり、多くの返事は「そうですね。座ることはできません」だった。
何年か前に韓国に行った時、立って計算するマーケットの風景が異様に見えた。 フランスのマーケットの職員は座って計算をする。レジ待ちの列が長くなっている時は、疲れたお客さんと対比されるほど気楽に座って仕事をする。品物を入れるのもお客さんの役割だ。このような風景に馴染んだ結果、椅子があるのに立って仕事をしている姿が異様に見えた。 だからだろうか、マーケットで仕事をする人たちの話を扱ったという『カート』という映画の封切りのニュースに関心を持った。 まだ観ていないし、「非正規職労働者のストライキの話」という記事を見た。レッドカーペットの花だと思っていた有名な女優が出演しているというニュースもうれしかった。 しかし、不思議に私の関心はストライキの話ではなく、非正規職の処遇問題でもなかった。 私がずっと気になったのは、相変らずその問題だった。「座って働くことができない」という話だ。 先日、いつも短答型だけで終わった私の質問に対する親切な説明を聞くことができた。
「椅子に座ることはできるけれど、お客さんが前にいれば座るわけにもいきません」。私はこの親切で“無意識“な返答のおかげで状況を理解した。 韓国ではレジの職員は「働く人」ではなく「下僕」だったのだ。 だから「主人」であるお客さんの前では座らせもせず、座ろうともしなかったのだ。 座って仕事ができないその風景が私には見慣れなく、韓国では当然だったのはそのためだったわけだ。
エッフェル塔の2階に行けば、二種類のベンチがある。 何も書いていない側は「お客さん用」だ。 そして「STAFF ONLY」と書かれた立て札が付いている側は職員用だ。 お客さん用と職員用が区分されているが、多くのお客さんはその立て札を気にしていない。 脚が痛くなれば座らなければならないのは全人類共通だ。 年間7500万人が上がるというエッフェル塔なので、いつも人だかりであり、そうするうちに職員のベンチはいつもお客さんに占領されていた。 そのような状況を見ていられず、エッフェル側はいつからか職員用ベンチにお客さんが座れないようロープを設置した。 お客さんから職員の休む席を保護するための措置だった。もちろん、そのロープすら無視して座ってしまう観光客がいないわけではないが、それでもある程度は職員の休む席は保障された。 2階までエレベーターを運行する職員や2階で管理をする職員たちは、そのベンチをロープで塞いでおき、休む時にはロープを外して座った。
顧客を相手に職員の休憩空間を保障する姿が、見ていて気分が良かった。ところが、それで終わりではなかった。何年か前の冬、エッフェルは2階の二種類のベンチのうち一方だけにヒーターを設置した。 どちら側だろうか? それは職員用ベンチの下だった。
韓国ならどうしただろう。お客さん用にヒーターがあり、職員はブルブル寒さに震え、お客さんはゆったりと休む。しかし真冬のエッフェル2階では、お客さんがブルブル震えて、職員は暖かく座っている。 しばし立ち寄ってパリの風景を見に来た顧客のおしりより、いつもそちらで冷たい風に吹かれて仕事をしなければならない職員のおしりの方が尊かったのだ。
エッフェル塔だけではない。 ベルサイユもルーブルも、冬にヒーターがある所は職員が仕事をする席のそばだ。また、観光地だけでない。 マーケットでもヒーターが設置されているところは入口側、だからレジ職員たちの上の天井だ。
『カート』という映画の話を聞いて、非正規職労働者の話という主題より、ストライキという状況より、さらに多く思ったことは、仕事をする現場で座ることもできずに、まともに休むこともできずに仕事をしている姿のことだった。椅子があっても、お客さんがいるから座ってはいけないということが当然の社会ならば、仕事をする人がただのの“侍従”扱いを受ける社会ならば、ストライキも非正規職に対する問題意識も受け入れられないだろう。 なぜなら“働く人”が“下僕”である以上、ストライキとは下僕の反乱程度にしか見えないからだ。
チェ・ジョンミン(元『ハンギョレ』パリ通信員、造形芸術学博士)
韓国語原文入力:2014/11/28 15:42