キム・ジンテ議員様、紙面上でごあいさつします。 パク・クネ大統領随行は無事終えられたでしょうか。 私はキム議員が「ただではおかない」と言われたパリのデモ参加者の1人です。頼みもしない手紙の受信者にならせてしまって恐縮です。
でも、これもすべてが「パリのデモ参加者、代価を支払わせてやる」というキム議員のお言葉から始まっているのですから、様々な反応にも耳を傾けなければならない理由があると思います。 キム議員がこんなにまで表現されたのを見れば、恐らく非常にお腹立ちだったようですね。もっとも、私もやはり国家情報院や軍サイバー司令部の選挙介入のニュースに非常に腹が立ったため参加したので、私たちは理由は違っても互いに非常に“腹が立った人々”なわけです。ただ残念なことは、単なる憂慮や怒りといった感情ではなく、キム議員のお言葉はほとんど脅迫の水準にまで至っているという点です。
「パリのデモ参加者、代価を支払わせてやる」 何がそんなにキム議員を怒らせたのでしょう? 参加者の正体が疑わしいからですか? キム議員はいくらにもならない参加者の正体を“統合進歩党、留学生”などと見ておられますが、“国家転覆を企てる者たち”とは見ておられないだけでもありがたく思います。 失望されるかも知れませんが、私はそういう呼称にさえ全く該当しない者であることを明らかにしておきたいと思います。 採証写真を根拠に国家情報院に問い合わせされる必要もなく、ほんの一言二言の紹介で済んでしまう人間なのです。 60を目前にしたパリ在住韓国人、一家の家長であり、学者であり、そして1970年代の学生時代から民主化運動には情熱を持って参加したけれども、その後はこれといった“業績”も示せないまま心情的にのみ共感をもつ市民として生きてきました。
ここで私はキム議員の認識に質問があります。 なぜ昨年12月の選挙について異見を語るには統合進歩党でなければならず、反政府人士でなければならず、若い留学生でなければならないのでしょうか? ただの平凡な人間は民主主義を語り、憂う資格もないのでしょうか? 盗む行為が悪いということを証明するために、四書三経に聖書・仏経・ヘーゲルを全て動員しなければならないわけではないじゃないですか。 再度申し上げますが、私は統合進歩党の人間でもなく、政治的な行動に特別積極的な人間でもありません。 しかし、敢えてそうでないと言う理由は、線を引くことを通じて“シムチョン(沈清)をいけにえとして海に落として(訳注:朝鮮の古い民話『沈清伝(シムチョンジョン)』から)”自分一人助かろうとする計算からではありません。そのような形の“レッテル貼り政治”や“分割政治”に同調する気は全くありませんが、事実がそうだということであり、また、何らかの所属が行動の正当性の可否を判断する基準にはなり得ないということを申し上げるだけです。 政治が最も常識的な民主主義の原則から外れる時、最も平凡な常識だけもってしても、正当かつ断固たる行動は十分に誘発されるのです。
「パリのデモ参加者、代価を支払わせてやる。採証写真など関連証拠を法務部を通して憲法裁判所に提出する。」とおっしゃいましたね。 私や集まった人々は匿名に隠れて集まったのではありません。 秘密の場所に集まったのでもありません。 公開された場所でフランス警察側の許諾を得て集まったと聞いています。 私の場合は、何か個人的にでも意見表明をしなければならないのではないかと考えていたところへ、ちょうど集会の計画があると聞いて、それこそ自発的に喜んで参加しました。 参加した人々も個人的にはほとんど知らない方々でした。 そして韓国でも数多くの人々がロウソクのあかりを手にしています。 これらの人々はみなそのためにある種の代価を支払わなければならないのですか? 選挙でコメント書き込み不正を犯した人々はまだ代価を支払ってもいないのに、不正を糾弾する人々がいったいなぜ、何の代価を支払わなければならないというのですか? はっきり申し上げたいのは、これはある個人に対してでなく市民の権利に対する威嚇です。 私が容認できないのはこの点です。
「それを見て血が沸かないならば大韓民国国民ではないでしょう…。」と言われましたね。それならば、選挙不正を見ても血が沸かない人はいったいどこの国の国民ですか? 同じ血が場所により異なって沸くことはできません。 パリにあっても心臓は同じ血が廻る心臓なのです。 そしてパリで反対や糾弾デモをすることだけが、在外同胞のすることの全部ではありません。 サイが「江南(カンナム)スタイル」でエッフェル塔を振動させた時は一緒に胸が高鳴ったし、韓国語が韓国料理が韓国映画が紹介される時は限りなく誇らしい気持ちになって積極的に参加します。
キム議員、ところでいったい、支払わせてやるという代価は何ですか? 遠い異国の地でロウソクのあかりを手にして集まったという理由だけで、いかなる不利益を恐れなければならないのでしょうか? 私は再びみじめな気持ちにならざるを得ません。自分の判断によって堂々と参加したことについて、それも不法でもない市民の権利主張に対し、あたかも問題を起こして叱られることを恐れなければならない子供の心情にならねばならないのですか?
一旦こうなったからには支払わねばならない代価なるものが何であるか気になりはしますが、それよりも私は祖国の経済・文化・政治がより一層成長することを切に願っています。 今回のパク大統領の歴訪はヨーロッパが中心でした。 ヨーロッパは永らく私たちが技術や文化的側面で追いつくことのできない先進国として尊敬してきましたが、今や私たちは相互的パートナー関係に成長した姿を見せています。 どんなに誇らしい姿でしょう。それなのに、よりによって文化と人権の首都パリで、韓国の国会議員として最も反人権的で非正常なレベルの発言をされるとは、これこそ今回の訪問の成果に汚点を残した致命的失策ではないですか? 歴訪外交同行に多くの苦労があったでしょうけれども、キム議員こそ今回の歴訪で本当に学ぶべきことを学べずに終ったという残念な気持ちを拭えません。
正直言って、この間ある教会で牧師が集まってパク・チョンヒ大統領追悼祈祷会をしたという便りに腹も立ち、恥ずかしさのあまり贖罪する思いが私をさらにけしかけたため参加したわけでもありますが、この程度の参加のために脅迫を受け、後を心配しなくてはならないとすれば、それ自体が深刻な問題と言わざるを得ません。 さらに、韓国が民主主義を成し遂げた1987年から数えても25年も経過した状況で、再びこのような脅しを受けなければならないとすれば、これは深刻な退歩に違いありません。 そういう前近代的な思考自体が民主国家という位相に致命的な傷をもたらすも のであり、より一層目覚めた市民精神をもって対処しなければならない理由を与えると言えるでしょう。
コ・ドクシン パリ在住同胞