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[世相を読む] キム・ジョンフェの問い

登録:2013-10-04 17:03 修正:2013-10-05 07:15
イ・ゲサム『今日の教育』編集委員

 京畿道抱川の人キム・ジョンフェは私と同い年だ。機械を上手に操り、仕事の腕はすぐれているが、勉強の方には興味がなかった。首都工業高校を出て昌原の三星航空に入り生産ラインで働いた。給料は良かったものの、自分の作った武器が世界のあちこちの戦場で人を殺しているという自責の念が彼を苦しめた。彼は会社をやめ、妻の故郷である慶南密陽(ミリャン)に帰農した。

丹場(タンジャン)面トンファジョン村の麓に手作りの家を建て、土地を借りて農業を始めた。二度と何も殺すまいと思い、農薬と肥料を使わない道を選んだ。トラックに野菜を積みアパート団地で売っていた時に出会ったある主婦の紹介で生協の存在を知り、売り先を見つけた。そんな彼に初めて会ったのは、密陽『緑色評論』読者会で帰農した人々と一緒に有機農産物直売事業を始めた時だった。それから9年もの間、私は彼をかなり煩わしたものだ。市内暮らしの消費者たちの注文を受け、毎週一回注文書を入れたのだが、包み菜2袋だけという時でも彼はトラックに乗り往復一時間の距離を走り届けてくれていた。作物の収獲体験とか農作業の手伝いとかは名ばかりで、実際は仕事のじゃまになるだけだったが、彼は嫌な顔ひとつしなかった。

5年前だったか、作業を手伝うといって彼の農場を訪れた。彼は37度を越える炎天下で一人畑を耕していた。自分なりの生き方を頑なまでに守り続けながら、与えられた条件を拒まずに身を持って「生き抜く」彼を私は尊敬するようになった。学校をやめて農業学校を立ち上げる計画を立て、私は彼の農場の働き手として1~2年過ごしながら、彼に学びたい気持ちを抱いたことさえあったのだ。

 しかし、キム・ジョンフェの人生も、学校をやめた後の私の計画も完全に狂ってしまったのは、他でもない密陽の送電塔のせいだった。彼の家のすぐ近くに送電塔二基が建てられ、超高圧送電線がぶら下がるようになった。村の年寄りたちの願いに沿い、そして自分と家族を守らなければならないという切迫した事情により、彼は村の対策委員長になった。

彼は農作業もほったらかし、送電塔反対闘争を始めた。山頂の工事現場で作業員たちに両手を縛られ暴行されたりもした。こみあげる怒りを抑えきれず、「事故」を起こし警察署に出入りするようにもなった。彼が逮捕された時、村のお婆さんたちは密陽警察署に押しかけ、「私たちのジョンフェを返せ!」と叫びながら陣取った。お婆さんたちは二晩ぶっ通しで野宿した。一人のお婆さんにどうしてそこまでなさるのかと訊いた。「体調が悪くて仕事ができなかった時、ジョンフェが装備を持って来て仕事をみんなやってくれたの。ジョンフェは私たち年寄りのことを思うと涙をぼろぼろ流す子なの。そんな子をほっておいて眠れるわけがない」。逮捕状が却下され釈放された時、彼はお婆さんたちの前でお辞儀をした。彼はマイクを握って話した。「世の中の偉い人たちは偉く生きるでしょうが、私はこのトンファジョンでお婆ちゃんたちと一緒に生きたいのです。お婆ちゃんたちをトラックに乗せて走り回りながら、そうやって生きていきたいのです。」

 判事の前で平和的にデモすると約束した彼は、工事が再開されると、結局トラックにテントと敷物を載せてソウルに行った。そして彼の妻と対策委常任代表であるチョ・ソンジェ神父と一緒に大漢門前で無期限ハンストに入った。

 キム・ジョンフェはハンストに入る直前に読み上げた文でこのように問うた。「私の何がいけなくて、力のないお婆ちゃんたちの一体何がいけなくて、爪の先が磨り減るほど働いて耕した人生を、全財産と健康を奪われなければならないのか。」 朴槿恵(パク・クネ)大統領とユン・サンジク産業通商資源部長官、ジョ・ファニク韓国電力社長、イ・ソンガン警察庁長は今キム・ジョンフェが全生涯をかけて投げかけたこの問いに答えなければならない。

https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/605664.html 韓国語原文入力: 2013/10/03 18:56
訳I.G(1727字)

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