韓国検察の「大庄洞(テジャンドン)事件」の控訴放棄について、地検長と支庁長らが立場表明文を発表し、最高検察庁の検事らはノ・マンソク検察総長職務代行の辞任を要求するなど、集団的な反発が広がっている。彼らは検察首脳部の控訴放棄決定が「検察の存在理由に致命的な傷を残すことになるだろう」と主張する。だが、国民はこれを超える事件について、今の検事たちが沈黙していた事実を忘れていない。これに対する反省のない選択的集団行動にどれほど多くの国民が共感できるだろうか。
支庁長8人は10日、集団声明を発表し「(大庄洞事件の)控訴放棄指示はその決定に至った経緯が十分に説明されなければ、検察が守るべき価値、検察の存在理由に取り返しのつかない致命的な傷を残すことになるだろう」と主張した。彼らは「捜査と裁判を担当した検事たちの意見が全く反映されなかった」とし、「責任あるポストにいる方々の納得できる説明と、その地位にふさわしい姿勢を求める」と述べた。全くその通りだ。検察首脳部が担当検事たちの意見を無視して独断的な決定を下したとすれば、検事たちが適切な説明と責任を要求するのは当然だ。ところが、検察の存在理由を疑わせる事件が数え切れないほどあった尹錫悦(ユン・ソクヨル)政権では、なぜこのような要求がなかったのか。今の基準なら、犯罪容疑が明白な(尹前大統領の妻)キム・ゴンヒ氏を嫌疑なしにした時や、尹前大統領の拘束取り消し決定に対して即時抗告をあきらめた時も、立ち上がるべきだったのではないか。
大庄洞事件の捜査・公判チームが「最高検察庁と中央地検指揮部の不当な指揮で、控訴状を提出できなかった」と反発するのも説得力に欠ける。検察首脳部の控訴放棄指示が不当だと判断したなら、ひとまず控訴状を裁判所に提出すべきだった。公職者が上官の不当な指示を拒否した場合は、処罰を受けないのが裁判所の確立された判例だ。控訴が必ず必要だったなら、上官の反対を押し切ってでも控訴状を提出するのが「公益の代弁者」にふさわしい姿勢ではないか。これを踏まえると、チョン・ジヌ・ソウル中央地検長がノ・マンソク代行の指示をいったん受け入れたにもかかわらず、検事たちの激しい反発を受け、一歩遅れて「中央地検の意見は違っていた」として辞表を出したのは無責任で卑怯だ。
検察は控訴放棄の不当さを主張し、根拠のない話で事態を糊塗することもはばからない。大庄洞関係者の不当利得を還収する道が閉ざされたとか、李在明(イ・ジェミョン)大統領が裁判で有利になったとか、世論操作を狙ったものとみられる主張を並べている。検察の今の行動は、むしろ捜査を法理ではなく政治的論理に従ってきたことを自白しているようなものだ。