本文に移動

韓国最高裁は国民を見下しているのか【寄稿】

登録:2025-05-07 06:07 修正:2025-05-07 09:24
クォン・ヒョギョン|高麗大学政治外交学科教授
チョ・ヒデ最高裁長官が1日、ソウル市瑞草区の最高裁で開かれた最大野党「共に民主党」のイ・ジェミョン大統領候補の公職選挙法違反事件の上告審の宣告裁判に出席している=写真共同取材団//ハンギョレ新聞社

 早期大統領選挙を1カ月後に控え、最大野党「共に民主党」のイ・ジェミョン候補の虚偽事実流布の容疑に対して有罪を確定したチョ・ヒデ最高裁長官率いる最高裁(大法院)の判決を見て、判決の核心は「国民にどのような印象を与えるか」という基準だと理解した。印象は主観的にならざるをえないが、過去の判例に反する新たな判例を提示したにもかかわらず、その法理的根拠を提示することもない、きわめて粗雑な決定文だった。今回の最高裁の宣告要旨の生中継と決定文は、一人の国民である私に、様々な印象を与えた。

 まず、最高裁判事には公的マインドや民主主義に対する理解が足りないという印象を受けた。ハン・ドクス前大統領権限代行やチェ・サンモク前副首相兼企画財政部長官、シム・ウジョン検察総長などの高位の行政府の人物らを通じて、公職者の公共性の欠如を感じ、チ・グィヨン判事からは裁判官の日和見主義的な責任回避がみえた。特に、チョ・ヒデ最高裁長官が最高裁判事らの十分な熟考なしに大統領選挙直前に強引に判決を押し進めたことは、公的マインドと責任感のなさを示す代表的な事例だ。公務員は公益のための責務をもつ職業だが、高位公職者は行政府であれ司法府であれ公共性を無視するという印象がある。民主主義の核心は、国民が基本権に基づき自由で公正な選挙に参加し、大統領や国会議員といった代表を選出することだ。ところが、選挙直前に司法府が介入することは、民主主義に対し意図しない結果、あるいは意図的な結果を生む可能性がある。これを知りながらもそうしたのであれば、その意図を疑わざるをえない。

 最高裁の判事たちの平均年齢は、私と同程度か少し高い。彼らは朴正煕(パク・チョンヒ)政権と全斗煥(チョン・ドゥファン)政権の権威主義の時期に育ち、1987年の民主化の時期に大学に通ったか、あるいは判事として働きはじめたのだろう。認めなければならない。われわれの世代は、民主主義の教育をまともに受けることができなかった。民主化後に生まれ、自由と基本権を当然のものと考える世代とは違う。まさにそのために、最高裁判事はよりいっそう慎重であるべきだった。選挙実施を控え、有力な大統領候補の公職選挙法違反の疑いに対して最終審を下すことが、民主主義にいかなる影響を与えるかを熟慮し、十分に議論すべきだった。一部の最高裁判事が補足意見で引用した「2000年のブッシュ対ゴア」の判例は、2000年の米国大統領選を米国の歴史上、最悪の選挙にした事例だ。連邦最高裁がフロリダ票の再点検を中断させ、ジョージ・ブッシュの当選を確定し、その結果、大統領は国民が選出したのではなく、連邦最高裁が事実上任命したかのように映ることになった。もし今回の最高裁の判決によってイ・ジェミョン候補が候補者資格を喪失したり、有罪が確定したりすることで、有権者が投票心理を変えて他の候補が当選したとすれば、それはやはり国民ではなく最高裁が任命した大統領にみえるだろう。これは民主的正当性に疑いを持たせる結果を生じうる。したがって、最高裁は選挙直前にこの事件を扱うべきでなかった。

 歌手のチョ・ヨンピルが思い浮かんだ。幼いころ、年末の歌手大賞の授賞式をよく見ていたが、チョ・ヨンピルをみるためだけに2時間以上待ったりもした。彼は常に最後に登場したからだ。12・3戒厳と内乱後、選挙を通じて民主主義の復元を進めようとする最後の瞬間に、チョ・ヒデ長官の最高裁はあたかもチョ・ヨンピルのように突然登場した。しかし、チョ・ヒデ長官の最高裁はチョ・ヨンピルではない。チョ・ヨンピルはほぼすべての大衆音楽のジャンルを徹底的に研究し、時代の流れを反映して新しい音楽を作り続けた。しかし、最高裁判事はすべての法律分野に対する専門性を持っているわけでもなく、特に10人の多数意見の最高裁判事は、変化する時代精神を反映した法解釈や熟考も足りないようにみえた。テレビ画面に映った彼らは、あたかも2枚目のアルバムで止まったチョ・ヨンピルのようだった。おそらく彼らは、学生時代に一生懸命勉強してソウル大の法学部に入学し、国家試験に合格して法曹エリートの経歴を積み上げ、最終的に最高裁判事になったのだろう。しかし、私の目に映った彼らは、初期の成功後に実力と時代的な感受性を更新しないまま、「地位追及」に留まった人たちのようにみえた。この姿は、行政府の高官たちにも、さらには586(80年代に民主化運動に関わった世代)の政治家たちにも同じように表れるはずだ。実際、50代男性が多数を占める国会も、変化した時代精神を反映する法を作ることに非常に後れている。

 憲法裁判所の尹錫悦(ユン・ソクヨル)弾劾審判の決定文と今回の最高裁の判決文を読むと、二つの機関が国民を見る視線があまりにも違う気がした。憲法裁判所の決定文では国民は主権者であり、戒厳令に対抗し、消極的な抵抗で反憲法的な命令を拒否した尊厳の存在として描かれている。一方、最高裁の決定文における国民は、政治家の発言が真実なのか偽りなのかさえ区別できず、簡単に誘惑される可能性のあるレベルの低い存在だという点を前提にしている。既得権を持つエリートであるほど、国民の能力を低く見て過小評価する傾向がある。それでこそ自分たちの地位と既得権を維持できるからだ。私は、最高裁が選挙直前にこの事件に対して無理に判決を下した理由が、単純な手続き上の問題ではなく、国民主権を軽く考える態度によるものだと感じた。その根元には、国民を見下す古い視線が存在する。自由な選挙に対する巧妙な介入と妨害は、民主主義の退行の代表的な兆候の一つだ。民主主義の退行の代表的な事例であるトルコのエルドアン政権が忠誠派で固めた司法府は、大統領選でエルドアン大統領の強力なライバルを懲役刑に処することによって、効果的に除去しようと試みた。チョ・ヒデ長官の最高裁が行ったことは、これと大差ない。国民は兵役と納税の義務を履行するが、今回の最高裁判事らは実質的に公務員の政治的中立義務を守らず、民主主義の退行に加担した。このような状況で、私は問わずにはいられない。どうすべきなのか。

//ハンギョレ新聞社

クォン・ヒョギョン|高麗大学政治外交学科教授 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

https://www.hani.co.kr/arti/opinion/because/1195892.html韓国語原文入力:2025-05-05 18:40
訳M.S

関連記事