韓国は複数回の革命またはそれに類する変革と権力交代を通じて国民的、政治経済的、社会文化的跳躍を遂げ、今日に至っているが、振り返ってみると、日本は天皇の「万世一系」を誇り、戦後60年あまりの間、中国とさほど変わらない「一党独裁」的自民党体制の中で「ガラパゴス現象」に閉じ込められてきたのだ。そのうえ、象徴的表象である天皇、門閥に分有された内閣、頑強な官僚、の三者に分かれている権力構造のせいで、彼らは新たな政策選択の決定権とその結果論的責任を押しつけ合う。
2年前の今頃、私は「戦犯国の自己欺瞞」と題して日本の国家的な「無反省」に対する批判をテーマに寄稿した。自ら起こした戦争で結局は米軍に投降し、自分たちを原爆の被害者と自任することで戦犯国という責任から脱し、その歴史的過ちを認めていないという話だった。先輩である言論人のチェ・ジョンホ先生の指摘から学んだ観点だった。その後、私は自分の文章の責任を取るために日本の韓国に対する態度に少し注意し、その観点はむしろより強調されるべきだという方向へと発展した。日本は反省どころか、恥ずべき歴史を打ち消すことに汲々としているということを相次いで確認したからだ。
彼らは、米国やドイツでの「平和の少女像」建設に猛烈に反対し、「日本軍慰安婦」という運命が抱かせた人間の普遍的な悲しみを読み取れないまま、自分たちの非行に対する非難とのみ考えてその証拠を消してしまおうとした。続いて軍艦島のユネスコ世界遺産指定問題が提起された。どの国でも、人権の国である英国や米国でも、開発や開拓の時代には少年工虐待や先住民に対して振るった暴力があり、その事実を恥じて過ちを明確に認め、補償に取り組むことまでしている。ところが日本人は軍艦島の開発を誇り、そこで行われた植民地の民衆に対する強制と彼らの苦しみを認めず、ユネスコの勧告に対してもそれを記録することを忌避し、自分たちの歴史を美化しようとばかりしている。
そして、韓国の裁判所が韓国人徴用工に対する補償を日本企業に指示した判決を下すと、日本は企業の韓国への部品輸出を制限する報復措置を取った。国際間の司法判決の適用には複雑な意見が介入するだろうが、司法レベルの問題を経済領域の報復へと転換したあさましさは当然批判されるべきものだった。そして、主要7カ国首脳会議(G7サミット)拡大に米国が韓国も入れようとしたことに対し、日本が露骨に反対したこと。そうすることで彼らはアジア的「事大善隣」体制を破壊し、「大東亜共栄権」の覇権国という華やかな修飾を守ろうとした。だから第2次世界大戦の戦犯国として懲罰されるべきであったのに、原爆の被爆国という大義名分により、むしろ戦争被害国に化けてその責任を回避した。そしてアメリカの庇護の下、50年代の朝鮮戦争、60年代のベトナム戦争で米軍の兵站基地となったことで、戦後復興からさらに進んで世界第2位の富裕国へと大きく成長した。にもかかわらず彼らは、韓国に対して、その発展に対して、もはや抑えつけることができず、いらついているように見えた。
そこへついに、外交官としての人格と国格を疑わせた相馬弘尚の極右的妄言が出た。私はここに至り、日本の韓国に対する理不尽さは、もしかすると一時は自分たちの植民地だった国の飛躍に対するコンプレックスのせいではないかと思った。全般的には、まだ韓国は日本に追いつけていないと判断するものの、この60年間で少しずつ日本を追い上げてきたし、ある部分では追い越したと自負してもいい点が見えてきた。1980年の韓国の個人所得は日本の6分の1だったが、今は日本が4万ドル前後、韓国は3万ドルを超えている。日本が誇っていた自動車産業も米国や東南アジアでは韓国が追い上げており、21世紀産業として脚光を浴びている半導体やバッテリーの分野では、むしろ韓国が大幅に上回っている。国連貿易開発会議(UNCTAD)において全会一致で「先進国」と公認された韓国のダイナミックな成長に彼らは驚き、妬み、恐怖を感じざるを得ないだろう。
このような私の考えを確認させてくれたのが、米国人学者ターガート・マーフィーの『日本-呪縛の構図』という著書だった。日帝の植民地時代に生まれたため日本至上主義をいまだ抜け出せていない私にとって、この本は日本が「韓国からの挑戦」を受けていることを明確に教えてくれる。米国では新世代の情報技術(IT)企業があふれ出る中、「日本の電子機器の巨人たちは韓国の大企業サムスンに押されて骨董品になっていく」、「韓国の企業は消費者向け家電製品から大衆文化に至るまで、様々な領域で日本を圧倒しつつある」と評し、その根拠として韓国の方が有利な3つの点を挙げている。韓国の方が国際化したエリートが多い▽韓国の政治経済機関の方が権力構造と責任所在が明確なため、迅速かつ果敢な意思決定ができる▽南北対峙と北朝鮮の脅威という『実存的脅威』のせいで失敗が許されない。
筑波大学の教授として誰よりも日本に精通しているであろう著者は、日本のこうした斜陽は「日本の戦犯たちは、望まない災難にやむを得ず引きずり込まれた受動的被害者のように行動した」と批判した思想家、丸山真男を引用し、「建前」と「本音」の間のオーウェル式二重思考を指摘する。その建前と本音の齟齬が責任を取らない態度をもたらし、その無責任が反省も批判も薄め、革命という考えも持てなくする。韓国は過去60年間、複数回の革命またはそれに類する変革と権力交代を通じて国民的、政治経済的、社会文化的跳躍を遂げ、今日に至っているが、振り返ってみると、日本は天皇の「万世一系」を誇り、戦後60年あまりの間、中国とさほど変わらない「一党独裁」的自民党体制の中で「ガラパゴス現象」に閉じ込められてきたのだ。そのうえ、象徴的表象である天皇、門閥に分有された内閣、頑強な官僚、の三者に分かれている権力構造のせいで、彼らは新たな政策選択の決定権とその結果論的責任を押しつけ合う。
「日本は米国の懐から抜け出せていない」という判断から、世界3大富裕国のひとつであるにもかかわらず、首脳会談では米国の顔色をうかがい、弱気な「小国根性」の日本を見て、明治維新ではむしろ「王権強化の復古主義による近代化」に至った逆説を成就した代わりに、「1930年代の制度的欠陥を1945年以降直そうとするのではなく、隠すことに汲々としていた」というマーフィーの鋭い批判に私は共感した。「韓国人の方が日本より、グローバル化にはるかにうまく対応」しているという彼の認識は、米国学者の「建前的な世辞」では決してなかった。その無力感、無責任、無反省の実在が、蒸し暑さの中で繰り広げられた2021年の「2020東京五輪」で再現されたのだ。世界最大のイベントを誘致したにもかかわらず、その誘致の功労者は開会式に出席せず、天皇は「祝意」を伝えることもできない。それでも8月の照りつける日差しと新型コロナウイルスのデルタ株の緊急事態の中で無観客試合を強行する責任は、誰も問うことも、支持することもなかった。世界のための、未来に向けたいかなるビジョンも見えない閉会式で、私は小さくなった倭国を再び目撃した。このような一党長期政権体制の政治的無責任構造が韓国を汚染しないことを私は願う。韓国の二大政党体制の政策選択とその責任担当の方が日本より進んでいると自負するからだ。
キム・ビョンイク|文学評論家 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )