チュ・ミエ長官とユン・ソクヨル総長は個性が強い。だからといって、2人の独特な性格に注目していては、今回の事案の本質をつかみ損ねる危険性がある。本質は、検察に対する統制権を逃すまいとする政治権力と、直接捜査権を奪われまいとする検察権力の衝突だ。
法務部長官は国務委員だ。国政について大統領を補佐し、国務会議の構成員として国政を審議する。検察、行刑、人権擁護、出入国管理その他の法務に関する事務を管掌する。
検察総長は、特定職公務員である検事の首長だ。最高検察庁の事務をつかさどり、検察事務を統括し、検察庁の公務員を指揮・監督する。
検察庁は法務部長官の所属だ。法務部長官が検事を統制する手段は3つ。
1つ、指揮・監督権。検察事務の最高監督者として一般的に検事を指揮・監督し、具体的事件については検察総長のみを指揮・監督する。
2つ、人事権。検事の任命と補職は、法務部長官の推挙により大統領が行う。
3つ、懲戒権。法務部長官は法務部に設置される検事懲戒委員会の委員長だ。
上辺のみを見れば、法務部長官の方が検察総長よりかなり強い力を持っているように見える。しかし実情はそうではない。チュ長官は3つの手段をすべて動員したものの、ユン総長に押されている。
なぜなのだろうか? 理由は2つ。第1に、無理したからだ。やり方が荒すぎたために大義名分をつかみ損ねたのだ。「法に則って」やるにしても、手続き上の正当性と民意の支持が必要だ。第2に、相手を甘く見たようだ。第2の過ちの方が大きい。
ユン総長は組織の人間だ。彼は「人に忠誠は尽くさない」と述べている。「善悪を問わず、検事は組織の意向に従わねばならない」と述べている。
ユン総長は検察主義者だ。彼のイデオロギーは保守でも進歩でもない。検察だ。極右や極左よりも危険でありうる。
ユン総長はずば抜けた検事ではない。検察にはユン総長のような検事が数十人、数百人といる。チュ長官はその部分を見過ごしたようだ。
ほとんどの検事は、チュ長官の措置が違法で不当だと考えたからこそ意見を表明したはずだ。「検察改革という目標が歪曲されたり、その真正性が損なわれることのないよう、冷徹に再考され、正されることを心よりお願いする」という丁寧な表現まで使っている。
しかし、高位公職者犯罪捜査処(公捜処)を設置して検察を牽制し、検察の直接捜査権を縮小するという文在寅(ムン・ジェイン)政権の検察改革案に、どれほどの検事が賛成するかは疑問だ。
検事たちが邪悪だからではない。むしろ正義感と責任感が強すぎることが問題かもしれない。権限を奪われまいとするのはエリート組織の集団的本能だ。
世間の関心は、チュ長官とユン総長の争いが、いずれの勝利に終わるかに集まっている。しかし、それよりもはるかに重要な国家的議題を忘れてはならない。検察改革だ。
今回の事態に見舞われつつも、文在寅政権は検察改革の原動力を失わずにいられるだろうか。文在寅政権すらも失敗すれば、検察改革は永遠に不可能となる。
文在寅大統領は2011年に出版された著書『文在寅、キム・インフェの検察を考える』で「私たちは政治的中立性、この部分をあまりにもナイーブに考えていたのかもしれない。政治的中立性さえ解決すれば、その枠組みの中で、いわば検察の民主化までついてくると考えていた」と語った。盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権で検察を信頼したことに対する後悔だった。
にもかかわらず、大統領になると検察に積弊の清算を任せ、検察主義者を総長に任命した。理解しがたい。
まだ遅くない。人も重要だが、結局は制度を見直さないことには改革は実現しない。何をなすべきか? 公捜処を発足させるべきだ。公捜処の発足は検察改革の始まりだ。究極的には検察の直接捜査権を他の機関へと移すべきだ。捜査権と起訴権を同時に持つ検察は、絶対に改革され得ない。
野党もしっかりすべきだ。検察を改革せぬまま、もし2022年の大統領選挙で国民の力が政権を握れば、何が起こるだろうか。検察は、前半期には文在寅政権の不正を集中的に捜査するだろう。後半期には政権勢力に刃を向けるだろう。
与党ではなく野党でもなく、検察が永遠の勝者となる「ネバー・エンディング・ストーリー」だ。野党が恐れるべき相手は文在寅政権ではなく、検察である。