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[寄稿]ディストピアと芸術の力

登録:2020-08-03 09:16 修正:2020-08-03 09:17
ヒエロニムス・ボス(Hieronymus Bosch 1450年頃 - 1516年)の「快楽の園」//ハンギョレ新聞社

 韓国のことはよくわからないが、日本ではこれから新型コロナ禍が本格的に襲ってくる。昨日(7月23日)東京では感染者数が360人を超え、過去最多となった。大阪でも100人を超えている。先行きの見えないウィルスとの闘いは今後も長く続いていく。しかし、私がここで「日本型ディストピア」と呼ぶのは、コロナ禍そのもののことではない。それによって引き起こされる様々な不条理(まさに不条理劇を見るような)を指している。例えば、首都圏や関西圏でこのような感染の蔓延という現実がある一方で、日本政府は多くの批判を無視して巨額の国費を投じ「GO TO」という旅行振興策を強行した。不振に喘ぐ旅行業界支援するためというタテマエだが、それなら他にいくらでも方法がある。これはその実、業界団体と癒着する政治家たちの要求に応じたものであることは明らかだ。安倍首相は7月22日、新型コロナウイルス対策本部会合で来夏の東京五輪を予定どおり開催する「不退転の決意」を披瀝した。日本国内の世論調査でも80パーセントほどが五輪の「中止」または「再延期」が望ましいと回答しているのに、である。誰が見ても無理のある計画に固執するのは何故なのか。その解釈は色々とあるが、ここでは詳しく立ち入らない。ただ、現実性のない政策の強行によって、またも民が大きな犠牲を被ることになるだろう。トランプのアメリカやボルソナロのブラジルなど、同様に不合理な政策によって民を苦しめている政府は少なくない。ただ、日本では、いったん決められた政策は、どんなに不合理であれ、ほとんど修正されることがないのである。かつて、戦後日本を代表する知識人・加藤周一さんは、そういう日本をブレーキのない自動車にたとえた。坂道をまっすぐに進んでいるときは順調に見えるが、途中で方向を変えることも停止することもできない、という意味である。これはかつて戦争に突き進んだ日本について述べたものだが、いまもこの特徴は変わっていないようだ。わかっていながら破局へと突き進む、このような「不条理劇」を私は「日本型ディストピア」と呼ぶのである。

 不慣れなオンライン講義を続けて、ようやく前期の終わりを迎えた。この間、結局学生たちと顔をあわせることは一度もできなかった。さぞストレスが蓄積しているだろう。それでも、学生たちは求めに応じて真面目にレポートを送信してくる。その中で、芸術学ゼミに所属する学生(D君としておく)のレポートが私の目を引いた。本人の許しを得て、その冒頭部分を紹介する。

 「このディストピア的世の中に、なぜかワクワクする私がいる。映画か何かの見過ぎなのかもしれないが、ついに私にとって「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」が幕開けしたのだ。世界の終わりはもうすぐそこまでやってきている。コロナのワクチンが開発される前に、巨大地震が起きて、日本列島が沈没するかもしれないし、あるいは戦争が起こって地球上のあらゆるものが破壊されるかもしれない。」

 人々が不安にかられ、病み、亡くなっているこの状況の中で、このような感想を紹介することは、ひょっとすると一部の人々から誤解され、不謹慎と叱責されるかもしれない。だが、私はそうは思わない。むしろ、どこか切ないものを感じる。「君の気持ちはよくわかるよ」と言いたくなる。

 まさしく「ディストピア的世の中」に投げ込まれ、友人と遊ぶことはもちろん、大学に入構することもできず、頼みの綱はインターネットのみというきわめて孤立した状態で過去数カ月を過ごしてきたのだ。就職もまだ決まらない。新型コロナについて悲観的な予測と、根拠のない楽観論とが目まぐるしく交錯し、そのどれを信じればよいのかわからない。自分の人生どころか、人類そのものの明日が、考えれば考えるほど見えない。そんな状況でD君はあえて「ワクワクする」と言う。私はこの心情が理解できる。このようにして、彼はかろうじて不安を飼いならし、精神の平衡を保っているのではないか。だから「切ない」のである。

 芸術を教えるということは芸術に関する知識や情報を与えるということではない。対象に出遭って驚いたり、悲しんだり、憤ったり、喜んだりする感性を喚起することである。それがどのように可能か、試行錯誤してきたが、さらにコロナ禍に襲われた。対面授業はできず、多くの美術館や映画館も閉鎖された。学生たちと直接顔を合わせて芸術作品をともに鑑賞し、感想や意見を述べあうことができなくなった。これで「芸術」が教育できるのだろうか?ある同僚教授(小説家でもある)が、教育には「肉感」と「肉声」が必要だと力説したが、まさにその通りだ。

 とはいえ、私は、D君のレポートによってわずかに励まされた。D君は先ほどの文章に続けてこう書いている。「もし明日がこの世の終わりで、残り24時間を好きなことに使っていいのなら、イタリアを旅したい。そして美術館に行き、ルネサンス期の情熱的な作品の数々を、記憶の中に留めておきたいと思った。」

 ここに「芸術の力」を感じるといったら大袈裟だろうか? ほんとうに、コロナ禍が終息し、世界の平和が保たれ、就職も決まってイタリアに旅立つことができたら、そして、図版や映像でだけ親しんできたボッティチェルリ、ラファエロ、ミケランジェロ、ダ・ヴィンチなどの実物と会うことができたら、どんなに素晴らしいことだろう。「明日がこの世の終わりなら」という条件付きで述べられていることがかえって、その望みが彼にとってはるかに遠いものであることを語っていて、なんとも切ないのである。

 およそ半世紀ほど前、私も先の見えない一人の孤立した若者だった。私の場合は、イタリア・ルネサンスはもとより、ブリューゲルやボスなど北方ルネサンスと言われる芸術家たちに魅了されていた。それらを実際に自分の目で見たいとどんなに焦慮したかしれない。会う人ごとに、機会さえあれば、自分のその憧れを語りもした。

 その当時、私の兄二人が独裁政権下で政治犯として獄中にあり、日本には兄を支援してくれる人々が存在した。その中に、国会議員秘書をしていたGさんという親切な女性がいたのだが、ある日、私の憧れを知っていた彼女がスペイン旅行から帰って来て、「あなたもいつかきっと行けるわよ」と私を励ましながらヒエロニムス・ボス(Hieronymus Bosch 1450年頃 - 1516年)の「快楽の園」【図】の大きな複製をお土産にくれた。その時は自分にもそんな日が来るとは思いもしなかったが、数年後私は西洋美術巡礼の旅を実現し、プラド美術館で「快楽の園」をこの目で見ることができたのである。

 つぶさに見ると、その絵はまさに「ディストピア」を描いたものであった。なんと奇怪な、なんと自由な想像力だろう!その「ディストピア」のイメージに、私はたしかに「ワクワク」したのである。きょう、ソーシャル・ディスタンスに気をつけながら、久しぶりに映画館にいって来た。「プラド美術館−脅威のコレクション」である(2019年イタリア・スペイン合作)。登場した女優兼作家が「プラド美術館で絵を見ることは旧友に会うようなこと」と語っていたが、まさに私にとってもそうである。

「芸術の力」によって現実を消しさることはできない。だが、自分が投げ入れられている現実をより広い視野の中で眺めることができる。現実は時に人間たちの想像力をはるかに超えて残酷な素顔をみせる。だが、人間たちのある者はそのような現実の残酷さをもはるかに突き抜ける想像力を作品世界に展開してみせる。自分が投げ入れられている「ディストピア」を見つめ描こうとするその不可思議な力が、「ディストピア的世の中」を生きていく力にもなるのである。

//ハンギョレ新聞社

徐京植(ソ・ギョンシク) 東京経済大学教授 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/955855.html韓国語原文入力: 2020-07-30 17:09

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