韓国は反対の道を進みながら世界一流に行き着くと勘違いした。留学派びいき、グローバリゼーション万能、英語論文中心の個人別業績評価、短期成果中心の研究支援体系、ソウル大学などいくつかの大学への資源集中、私立大学中心の大学体系、ソウル中心の文化学術生態系、大学序列化の固定化などがそれだ。
世界で、欧州と米国を除けばノーベル賞受賞者を数十人輩出した国は日本だけだ。ところが非西方国家のうち、唯一帝国主義だった国も日本であり、彼らと同じ発展水準に上がった国も日本だ。世界で日本を見下げる唯一の国である韓国の人々は、今や防弾少年団(BTS)が世界大衆音楽の最高水準に上り、ソウルの繁華街も東京と違いがないと考えて、韓国が日本とほとんど同水準に上ったとうぬぼれる傾向もある。
大きな錯覚だ。科学技術、企業経営、専門性の水準など、どれか一つの領域であっても、日本をよく調べた人なら誰でも、両国の格差は量的なものでなく質的な側面にあるということを知っている。両国の経済力差は大幅に狭まり、民主主義の水準では韓国が先んじた点もある。しかし、最も大きな格差は基礎学問、基礎科学技術、すなわち概念設計能力であろう。
日本の学者が企業の莫大な財政支援を受けたり、西欧の先進学問をいち早く学んだので、こういう成果を上げたのだろうか?実際、日本のほとんどのノーベル賞受賞者は留学派ではなく国内派で、彼らは主に日本語で論文を書いた。日本のノーベル賞受賞者24人のうちの半分以上は東大出身ではなく、その中には名前の知られていない大学出身もいて、中小企業や劣悪な条件で勤めた人々もいる。彼らの大多数は私立大学出身でなく、ほとんど一つの研究を安定的に継続できる国公立大学の出身という点も記憶しなければならない。
私は自然科学徒ではないので、基礎科学や工学の次元でノーベル賞受賞の理由をきちんと説明する能力はないが、学問一般、特に韓国の社会科学の境遇から類推してみれば、日本の事例を十分に理解することができる。まず、外国のことをいくらたくさん学んでも、自分のものになるには学問的質問が現場に根ざしたものでなければならない。第二に、長期的な基礎研究は企業の論理にあまり振り回されない国公立大学でこそ可能だ。第三に、“自分のこと”に基づいてこそ国際的交流に意味がある。第四に、研究は一人でするものではなく、必ず関心と領域を共有する研究者間の緊密な交流に基づかなければならない。すなわち、研究クラスターがあってこそ優れた成果が出てくる。
グローバリゼーションの風が吹いた過去20年間、韓国は反対の道を歩んだ。留学派びいき、グローバリゼーション万能、英語論文中心の個人別業績評価、短期成果中心の研究支援体系、ソウル大学などいくつかの大学への資源集中、私立大学中心の大学体系、ソウル中心の文化学術生態系、大学序列化の固定化などがそれだ。私たちは反対の道を進みながら世界一流に行き着くと勘違いした。
国内総生産(GDP)に対する韓国の研究開発(R&D)支出比重は世界1位だ。人文社会科学研究費支援予算も少なくはなく、博士課程、博士後期課程の支援事業や大学“研究所支援”事業も大幅に着実に増えた。学者論文編数も目に見えて増え、外形的側面で見れば学問と大学は大きく発展した。しかし、大学と学問を質的に高揚させようとする体系的検討や長期的学術支援は事実上なかった。英語論文ブームは20年間持続しているが、韓国の人文社会科学者のうち世界的隊列に上った人がいるのかわからない。ソウルの有名私立大学は、建物を作ることには途方もない資金を支出するが、人を育てる作業にはきわめてケチだ。優秀な人材が基礎学問分野ではなく医大と法大に行き、才能を主に私的利益のために使っている。
過去の先進追いつき型成長過程では、先進理論の輸入と学習が最も重要だった。ところが、韓国は組立加工輸出の段階を抜け出したのに、概念樹立能力、基礎学問の水準が低いので、高付加価値オリジナルブランドをまともに作り出すことができない。基礎固有技術は、独自の理論と概念なしには作られない。社会科学系の場合、今韓国と世界が処した問題に対して解決策を提示できる独自の概念と理論がなく、その必要性に対する共感も弱い。外国の碩学をいくらたくさん招請しても、自らの学問を生産できなければ問題は解決されない。
世界水準の研究中心大学を目標にした支援政策(BK21)を再考しなければならない。地方を拠点とする大学の育成を通じた研究クラスター造成、高等社会科学院のような基礎研究単位を作り、長期投資をしなければならず、国内博士が世界水準に上れるように支援しなければならない。独自概念と理論があってこそ、世界と人類に寄与することができる。過去の帝国は、理論と概念で依然として世界を主導している。それなら韓国はどんな国で、どこへ向かっているのか。