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[社説]済州4・3から70周年、「白碑」を起こす時だ

登録:2018-04-02 05:23 修正:2018-04-14 00:19

 どんな事件でも10年単位の年を意義深く記念するものだが、済州4・3が70年を迎える今年はさらに特別だ。7日、ろうそくの火が燃えあがったソウル光化門(クァンファムン)広場で、初めて国民文化祭が開かれ、3~7日には全国20カ所に焼香所が設置される予定であるだけではなく、作家や俳優、政治家などのリレーキャンペーンも続いている。長い間「済州だけの悲劇」に留まっていた4・3を、「大韓民国」の現代史に位置づけるための動きが本格化している。

「済州4・3」70周年を2日後に控えた1日、済州4・3平和記念館に横たわる「白碑」を追悼客が見ている。「何らかの理由があって碑文を刻めなかった碑石」という意味の白碑の案内文には「いつの日かこの碑に名を刻み立てるだろう」と記されている=済州/ペク・ソア記者//ハンギョレ新聞社

 2000年に4・3特別法が制定され、2003年に国家を代表して盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領が謝罪し、2014年には国家追悼日として指定されたが、まだ光が当てられていない部分が少なくない。先日済州地裁で再審請求裁判が開かれた4・3受刑者たちの苦しみもその一つだ。88歳のキム・ピョングクさんは、法廷にかかっていた「第77条内乱罪」という垂れ幕で自分の罪が何かを推測しただけだとして、死ぬ前に名誉を回復したいと話した。「山から下りてくれば皆生かしてくれるという言葉を信じていたが、捕まった」とし、「武装隊に何をやったのかと追及しながら殴るものだから、何もやらなかったと答えると殺されると思い、米二升をやったと言った」彼らは、弁護士も、公訴事実の朗読も、判決文もない違法軍事裁判を受けた。このように全国刑務所に分散・収容された人々は2146人。1999年に発見された受刑者名簿で初めて明らかになった規模だ。1950年に朝鮮戦争が起こると、平沢(ピョンテク)以南の受刑者らの多くは即決処分されるか、行方不明となった。ほとんどの遺族がまだ遺体を見つけられずにいる。

 政府の真相調査報告書が明らかにしたように、4・3は1947年3月1日、観徳亭前発砲事件で始まり、翌年4月3日の南朝鮮労働党済州島支部の武装蜂起を経て、漢拏山(ハルラサン)の禁足令が解除された1954年まで、約7年間にわたって続いた過程だ。犠牲者数は2万5千~3万人と推算されており、中には武装隊による死亡事件もあったが、80%以上が討伐隊によるものであることが、調査で分かった。武装勢力数百人がいるという理由で、当時済州人口の10%が犠牲になったのは、いかなる名分でも合理化できない“国家暴力”と言わざるを得ない。残った傷は深く、また長かった。4・19革命直後に真相究明の動きがあったが、朴正煕(パク・チョンヒ)政権の登場以降、済州島民らは反共法と連座制に縛られ、4・3について語ることさえも憚りながら、アカ狩りに怯えて拷問の後遺症に苦しむ日々を送ってきた。日本に密航した人々の中には、死ぬまで故郷に帰ることができなかった人々もいた。

 4・3は、3・1発砲と弾圧に抗議した3・10官民ゼネストや単独政府樹立に反対した激しい世論など、解放空間の歴史と李承晩(イ・スンマン)政府および「冷戦のレンズ」で済州を見ていた米軍政の役割などに対する理解なしには、アプローチできない問題である。にもかかわらず、まだ理念のフレームをかぶせて鎮圧が正当だったという論理を展開する勢力がいるのは、痛嘆すべきことだ。

 済州奉蓋洞(ポンゲドン)の4・3記念館には「白碑」が横たわっている。反乱や事態、暴動、抗争、運動など多くの名前で呼ばれてきたが、交差する視線の中にまだ本来の名前を見つけられない4・3の痛みを象徴するものだ。文在寅(ムン・ジェイン)大統領をはじめ、去年の大統領選挙の主要候補らは、犠牲者に対する賠償と補償を積極的に検討するなど、国家の責任を果たすと約束した。もしかしたら、今年は、4・3を生々しく証言できる生存者たちが、最後に迎える10年単位の年かもしれない。朝鮮半島の和平に向かった巨大な動きが始まる4月、初期冷戦の陰で生まれ、反共主義時代にはずっとレッテルを貼られてきた4・3の正しい名前を見つけることは、これ以上先送りできない私たち皆の宿題だ。

(お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/opinion/editorial/838597.html韓国語原文入力:2018-04-01 18:55
訳H.J

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