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[済州4・3ー70周年企画2] 4・3で済州島を離れた人たち

登録:2018-03-27 10:31 修正:2018-04-02 10:25
生きるために済州を離れなければならなかった人たち 
4・3の狂風から逃れ日本へ、陸へと渡った「ディアスポラ」 
「死んでも帰ってくるな」…生涯故郷を思い描いて
キム・イソンさん家族が離散家族の再会を通じて58年ぶりに北朝鮮にいる兄に会ったことを記念し、済州市朝天邑新安洞の両親の墓の前に立てた「兄妹再会記念碑」をキムさんの息子のパク・ヨンソンさんが見ている//ハンギョレ新聞社

 済州4・3当時、多くの済州の人は日本や陸地に散らばって別れた。済州島に嫌気がさしたり、一人息子や一番上の孫という理由で母や祖母の手に引かれて“死の島”を脱した。軍警討伐作戦が強化され、親は子どもたちと再び会えなくなることを知りながらも「子どもを生かすため」密航船に乗せて送り出した。

 「4・3ディアスポラ」はこのように始まった。荒海を渡る済州の人々は、命がけで船に乗り込んだ。不慣れな土地での生活はつらかったが、死は避けることができた。済州と日本、米国などへと散らばって暮らしたり、北朝鮮に行った兄弟姉妹もいる。彼らは故郷にいる親の訃報を聞いた時も、悔やむばかりで帰って来ることはできなかった。

■日本へ

 済州出身の在日同胞たちが多く住む大阪・生野では、済州島で焦土化が激しかった1949年1月3日、在大阪済州島大静面(テジョンミョン)懇親会が「人民虐殺反対追悼会」を開いたのを皮切りに、町ごとの追悼会が各地で行われた。

 日本への密航経路は、済州から直接行ったり、釜山と対馬を経て山口県と北九州の間の水路を多く利用した。1948年10月下旬ごろから海上警備が強化され、密航船は南九州方面へと航路を変えた。特に焦土化の時期と重なると密航者が急増した。当時日本に駐留した英連邦占領軍の1948年10月25日付「愛媛県を通じた不法入国統制」報告書には、「10月に入り毎日韓国の密航者らが逮捕され、約300人にのぼった」と書かれている。この時期、済州から日本の愛媛県へ密航して逮捕された済州島民は、5回にわたり289人にものぼった。しかし、4・3を逃れて日本に渡った済州の人々に対する具体的な統計はない。4・3が終わる頃、当時キム・ヨンハ済州道知事は「4万人あまりが日本に渡った」と話したが、これを裏付ける資料はない。5千~1万人あまりが日本に渡ったという研究者もいる。

 日本の大阪で生まれ、朝鮮の解放後、故郷の西帰浦市(ソギポシ)大静邑(テジョンウプ)に定着していたイ・チャンスンさん(86・東京)は、中学1年生の時の1948年、友人3人が銃殺される姿を直接目撃した。今年1月14日に東京で会ったイさんは「村にいる人は皆出てこいと言った。出て来なければ『お前もアカだ。銃殺する』と言うので皆出て行った。その場面を一生忘れられない」と話した。イさんは済州を発ってソウルにしばらく滞在し、釜山を経て日本に渡った。イさんは「祖母が1949年に亡くなった後、私に死んでも済州島に帰って来るなと言ったという言葉を、友達を通じて聞いた。長孫なのに祖母の葬儀が行えなかったことが心残りだ」と話した。

今年1月、東京で会った済州出身の在日同胞2世のウォン・イルトンさんが父と4・3に対する話をしている//ハンギョレ新聞社

 東京・上野で会った在日同胞2世のウォン・イルトンさん(59)から渡された名刺には、名前が「チン・イルトン」となっていた。済州市旧左邑(クジャウプ)金寧里(キムニョンリ)出身であるウォンさんの父(ウォン・ギョンヨン・逝去)も、4・3の頃に生きるために日本へと密航した。済州農業学校在学時代、学生活動をして山に避難した父は、約10人が一緒に討伐隊に漢拏山の野原で銃殺される瞬間、銃が発射されなかった隙に砂穴に落ち、唯一生き残った。その後、叔母の家に隠れたが警察に捕まり、数回の死の峠を越えた父は密航船に乗った。

 ウォンさんは「討伐隊が来た時、父を逃がすために祖母が食い止めて逃げさせたという。その時、祖母は捕まってかなり拷問を受けた後、処刑された。父が3代の一人息子なので、息子を生かそうと祖母はそうした」と話した。済州で暮らせなかった父は、日本に行くために密航船に乗って対馬を経て博多に入った。

 しかし、父は日本の警察に逮捕され、大村収容所に送られた。金寧里出身の在日同胞たちは、父が送還されれば処刑されると言って救命運動を行った。当時の日本のお金で80万ウォンを集め、「チン・テヨン」という名前に変えた外国人登録証を作って父を救った。その時から彼が日本で呼ばれる名前はチン・テヨンだった。日本で生まれたウォンさんは、チン・テヨンの息子の「チン・イルトン」になった。ウォンさんは「父は九州から東京に行く時に祖母の命日を迎え、酒とおにぎりを買い、香をたいて汽車の中で祭祀を行うほど、祖母に対する哀しさと申し訳なさがあった」と話した。

 ウォンさんの父は息子に4・3の話をよく聞かせたが、父は日本で息を引き取る時まで済州島を訪ねなかった。ウォンさんは「父は何度も故郷に行きたいと言いながらも『俺はアカじゃない。母さんを殺した人間に頭を下げられるものか。統一されたら行く』と言って、行かなかった」と話した。40歳を越えて済州を初めて訪れたウォンさんは「幼い頃から村の親睦会活動もして、家では済州の言葉を使いながら育ったから、日本で生まれたが済州島が故郷という自負心がある」と話した。

 4・3、当時中学校1年生だったハン・ギョンイクさん(84・東京)は、当時1年先輩が銃殺され、その先輩の父が「一人息子を生きて返せ」と交番の前に横たわって泣き叫んだようすが生々しいと話した。なかなか4・3の経験を話さなかったハンさんは、「どうして同じ民族を家畜のように殺せるのか。4・3を忘れたことがない」と言った。ハンさんは「日本に渡る前、父が病気の体を起こして杖をついて私を送ろうと停留場まで来た。それが父を見た最後の姿だった」と言い、声を詰まらせた。

 今年1月、日本の川崎で会ったパン・チョンオクさん(81)も、4・3の話は持ち出さなかった。4・3が勃発した1948年、小学校3年生だったパンさんは同年5月に父について木浦(モッポ)で生活し、1951年春に済州に帰ってきた。そのとき聞いた話はあまりにも衝撃的だった。「2年後輩のお母さんが畑で死んだ時でした。西北青年らが住民に向かって、目隠ししたその母親を殺せと言いました。でもどうやって殺せますか。住民たちがおろおろしていると、西北青年たちは住民たちを殺すと脅したそうです。仕方なくその母親に『許してくれ』と言って、竹やりを刺しました。村人たちはそれを内緒にしました。あまりにも残酷で、身震いがしました」。1965年に日本に渡ったパンさんは「どうやって4・3を忘れられますか」と言いながらも、言葉を控えた。

■北朝鮮へ

 「もしかしたら生きているかもと胸を焦がして待った忍耐の月日、数え切れぬほど流した涙、両親を思って眠れず夜を明かした瞬間が、クォンベ兄さんに会って豊かな家族とともにいることを確認して、春の雪が溶けるようにすっと消えました」

 済州市朝天邑(チョチョンウプ)新安洞(シンアンドン)のある家族墓地の夫婦の墓の前には、独特な石碑がある。ちょうど10年前の2008年3月7日、キム・イソンさん(86・済州市朝天邑)ら子どもたちが立てた「兄妹再会記念碑」だ。キムさんは2007年、もしかしたらという気持ちで離散家族再会を申請し、兄が北朝鮮で生きているという連絡を受けた。

別れて58年後の2007年5月12日、南北離散家族再会行事で再開した北朝鮮の次兄キム・クォンベさんとキム・イソンさん、長姉のキム・イルソンさん(左から)=キム・イソンさん家族提供//ハンギョレ新聞社

 「泣いたらお互いに話もできないので、行くときから絶対に泣かないと約束した。死なずに生きて会えるだけでも嬉しいのになぜ泣くことがあるのか。向こうから歩いてくるのが兄さんだ、と思った。兄さんも『イソン』と私を呼んだ」。2007年5月12日、金剛山で開かれた第15回離散家族再会の時、キムさんは北朝鮮に住む次兄のキム・クォンベさん(90)と再会した。18歳と22歳で別れた兄妹は、58年ぶりに再会したが泣かなかった。兄妹の再会6カ月前に、死にゆきながらも故郷を焦がれた隣町出身(朝天邑新村里)の兄嫁が、北朝鮮の済州島共同墓地に埋められたという話も聞いた。キムさんの息子のパク・ヨンソンさん(64)は「私たちまでの族譜(家譜)を5冊作り、その下に私の子どもと伯母の子どもたちの電話番号を書いて渡した。済州島に来たら食べていけるだけのものはあるから、いつでも来てくださいと言った」と話した。

 4・3当時、陸地刑務所に収監された済州の人々は、朝鮮戦争時代に刑務所の門が開かれ、処刑されたり行方不明になった場合が多い。彼らの中の一部は、自分の意思半分、他人の意思半分で北朝鮮に渡った場合もある。キムさんの次兄はソウルで叔父の会社に通っていた時、朝鮮戦争時代に北朝鮮に行くことになった。

 故郷の朝天で解放後に夜学活動をしていた次兄は、1947年3・1節記念大会でその後警察に目を付けられ、家に帰れないまま隠れて暮らした。4・3が本格化し、次兄を探せという警察の駆り立てで、朝天の収容所に入れられていた父は1949年1月5日、朝天支署の前の畑で銃殺された。15歳だったキムさんは、夜通し父に着せる服を作り、9歳の弟と馬車を借りて父の遺体を運び、近くの畑に仮埋葬した。

キム・イソン氏が離散家族再会当時着用した名札に書いた「また会おう」という文字に兄妹の哀切さが見える//ハンギョレ新聞社

 父と一緒に収容所に連行された母(キム・チャンファン、当時49)は、同月22日に後を追い犠牲になった。済州市の親戚の家に隠れていた次兄はある日、親が死んだ故郷が嫌だと言い、ソウルに向かった。キムさんの長兄のキム・イムベさん(当時29)は、朝鮮戦争直後に支署で会議があると迎えが来て出て行ったのが最後だった。キムさんの姉のイルソンさん(94)は「最初に済州警察署に連れていかれた長兄は6月に死んだのですが、警察が話さなかったので、同年8月まで差し入れを買って持って行った」と話した。キムさんは後になって警察が長兄を船に乗せ2時間ほど出た後、石に括りつけ海に落として殺したという話を聞いた。姉が嫁に行った後であり、キム・イソンさんは16歳の時から70歳になるまでご両親の祭祀を行った。

 「両親に息子が死なずに生きていて、会ったという事実を知らせたくて、兄妹再会記念碑を建てた。兄は両親が死んだのが悔しくてたまらないから、統一しても来ないだろう」。キムさんの言葉だ。キムさんの家族墓地では、4・3当時犠牲になった親と長兄の碑文が4・3の悲劇を語っていた。

■陸地へ

 先月23日、京畿道高陽市(コヤンシ)で会ったオ・チュジャさん(80、京畿道高陽市)は、国内の「4・3ディアスポラ」の例だ。オさん家族は1946年秋、済州市老衡(ノヒョン)の母方の家を訪ねるために、日本の大阪から木浦を経て済州島に入った。父と母、姉、弟2人全員が来た。オさんは「父がしばらくして後で迎えにくると言い、一人で日本へ渡った」と話した。オさんの父(オ・ヨンス、当時34)は、1947年3・1事件前日の2月28日、妻と子どもたちを連れに済州に来た。翌日の3月1日、遅く起きた父オさんは遅い朝食をとっていたところへ町の班長から「観徳亭広場で3・1節の催しをする。一度行ってみなさい」という言葉を聞き、食事を終えて家を出た。それが最後だった。1947年3・1節記念大会後、警察の発砲で民間人6人が死亡した3・1事件は、4・3の導火線となった。

オ・チュジャさん//ハンギョレ新聞社

 オさんは「父が出て行ってまもなく、死んだという連絡がきた。母は私たちに家の外に出るなと言い、泣き喚いて大変だった」と言い、「父が死にたくて来たのでもなかろうに、ちょうど合わせて来てしまった。親しく言葉を交わすこともできないまま亡くなった」と回顧した。父が死んだ翌月、忘れ形見で生まれた弟は4歳になった1950年6月に死んだ。6歳年下の弟もその頃死亡した。オさんは「父を亡くした母は一日中海辺に座って海ばかり眺めて暮らした。見かねた叔父が私たちを釜山に連れてきた。母は釜山で苦労して商いをし、またソウルに住居を移してから今年で66年になった」と話した。

 「3・1事件、4・3事件で陸地に出てくることになりました。村の叔父たちは、日本から故郷に帰らなければ何の問題もなかったはずなのに、故郷に戻ってこんなことが起きたと言って、ここを離れるよう言いました」

 4・3によって離れた人たちの多くは帰って来なかった。不慣れな土地で再び苦しい生活をしなければならず、そこで根を張って新しい土台を築いた。そして日本へ、陸へ、北へ渡った人たちの記憶の中には、いつも「故郷・済州」がある。4・3のディアスポラは現在進行形だ。

東京、済州、高陽/文・写真ホ・ホジュン記者(お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/society/area/837205.html韓国語原文入力:2018-03-22 10:33
訳M.C

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