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[済州4・3ー70周年企画 3] 4・3、もう一つの冷戦

登録:2018-03-31 03:33 修正:2018-04-02 10:22
“冷戦レンズ”をかけた米国…4・3の始めと終わりを隅々まで知っていた
1948年5月15日に撮影されたこの写真は済州島駐屯第9連隊顧問官リーチ大尉が警備隊中隊の将校と共に共産主義者が勢いを増している村を攻撃する計画を立てていると説明されている。リーチは後日「済州島は合法的な軍事作戦地域だった」と主張した=ハンギョレ資料写真//ハンギョレ新聞社

 24日、済州市奉蓋洞(ポンゲドン)の済州4・3平和記念館では、観覧を終えた訪問客が米国と国連の措置を求める署名用紙に署名をしていた。済州4・3遺族会、済州4・3第70周年汎国民委員会、済州委員会等が推進する「済州4・3に対する米国と国連の責任ある措置を求める10万人署名運動」には、去年10月から現在まで5万人あまりが参加した。彼らはなぜ米国の謝罪を要求しているのだろうか。

■ 冷戦の影

 「済州島民は国際的な冷戦と民族分断が生み出した歴史の車輪の下で、途方もなく大きな人命被害と財産損失を被りました」。2003年10月31日、盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領は済州島を訪ね、済州4・3について謝罪して「冷戦」に言及した。

  1947年3月12日、トルーマン米大統領はギリシャ内戦をきっかけに触発された「トルーマン・ドクトリン」を発表した。 同日、ソウルでは米軍政警務部次長チェ・ギョンジンが「元々済州島は住民の90%が左翼色を帯びている」と言った。駐韓米軍司令部情報参謀部(G-2)も、済州島を「左翼の拠点」と言及し、済州島を「赤い島」と規定していった。同年11月には国連で米ソ間に「米国の済州島軍事基地化説」を巡る議論が起きたりした。 4・3が本格化すると、外信は「済州島の状況展開は(トルーマン・ドクトリンを触発させた)ギリシャ内戦の様相と似ている。駐韓米軍司令部も驚いている」と伝えた。 2003年に出た韓国政府の「済州4・3事件真相調査報告書」は「米ソ冷戦が済州4・3の残酷さをもたらしたということは当時のメディアの共通した認識だった」と紹介している。

 国内外を合わせて初めて1975年に4・3論文「済州島反乱」を書いたジョン・メリル元米国務部北東アジア室長は、記者とのインタビュー及びEメールのやりとりを通して「米国は冷戦のレンズを通して済州島事件を見たのであり、現地の環境を十分に考慮することができなかった。済州4・3はアジアにおける広い意味での冷戦の脈絡に触れている事件だ」と言った。

■ 米軍顧問官たちの4・3経験

 済州4・3の時期に済州に駐屯していた国防警備隊(陸軍の前身)連隊には米軍顧問官がいた。彼らは訓練と作戦、軍需支援など全ての面で助言をした。 記者は4・3が本格化した1948年5月~12月に済州島とソウルに勤務した6人の米軍顧問官出身の予備役将校らに、直接会うかEメール、手紙などを通してインタビューを行なった。 今は皆故人となった彼らは、以前の記者とのインタビューで、自分たちの勤務期間の大量虐殺は知らないと答えた。

 1948年5月~8月の連隊顧問官は「済州島は合法的政府を脅かす勢力に対する合法的軍事作戦地域だった」として「パク・チンギョン連隊長とともに第11連隊を中山間地域に送り込んで作戦をさせた。直接見はしなかったが、警備隊は暴徒を見たら彼らの一部を即決処分にした」と話した。同年7~8月の大隊および連隊顧問官は「私の任務は反乱を鎮圧し、共産主義者をせん滅することだった。何回も済州島を貫いて掃討作戦を展開した」と話した。

遺族会・済州委員会・汎国民委、米国責任を求める署名運動を展開
済州島駐屯顧問官「作戦現場に出たことはあるが、虐殺は知らない」
米軍情報報告書や駐韓米大使館文書などには直・間接介入の事実多数
ジョン・メリル「米国は冷戦のレンズで済州島事件を見た」
『朝鮮戦争の起源』の著者ブルース・カミングス教授「米責任論」提起

 さらには焦土化作戦の時期である48年9月~12月に済州島に駐屯していた顧問官も「島の内陸にいる人は誰でも敵と見なし、住民は海岸の村に疎開させた」と言い、「警備隊の会議に参加すると、いつも捕獲した武器の数より射殺者の数の方が多かった。私は武器を見せてくれと言ったことがあるが、言語疎通が難しくて文字通りの“顧問官”だった」と話した。しかし彼は「罪のない人々が死んでいるということは感じたが、大量虐殺については知らない」と言った。 これらの顧問官は「民主主義と共産主義の戦いだった」として、米国責任論を強く反駁した。

駐韓米軍司令官ホッジ中将がブラウン大佐(右)と握手している。ブラウン大佐は1948年5月下旬に済州島最高指揮官として派遣され、作戦を陣頭指揮した=ハンギョレ資料写真//ハンギョレ新聞社

■ 米国の直・間接介入

 済州島駐屯警備隊顧問官らの記憶とは違って、米軍政首脳部、軍事顧問団と米大使館などは非常に深く済州島事件に介入した。 駐韓米軍司令部と防諜隊、軍事顧問団の報告書、米大使館の文書、極東司令部の報告書などは、米国が4・3の開始と展開、結末を隅々まで知っていたことを示している。

 1948年5・10総選挙を控え、米軍政は済州事態を鎮圧するために駐韓米軍司令部作戦参謀の済州島視察および指導(4.27~28)、軍政長官ディーン少将と米第6師団長の同時視察(4.29)、ディーン少将の済州島再訪問と韓国人軍政首脳部の現地非常対策会議(5.5)などを相次いで開き、鎮圧を督励した。

 しかし、5・10総選挙において全国で唯一済州地域の2つの選挙区で選挙が実施できなくなると、米軍政は直接介入に乗り出した。 選挙の二日後の5月12日、米極東司令部は済州島に米駆逐艦クレイグ号を急派した。 次いで同月19日を前後して米第6師団第20連隊長ロスウェル・ブラウン大佐を済州島最高指揮官として派遣した。 6・23再選挙を控えた時点だった。 当時の顧問官は記者とのインタビューで「彼が済州島の警備隊と警察の全責任を負った」と言った。

 作戦を陣頭指揮したブラウン大佐は6月初め、記者たちとの会見で「原因には興味がない。私の使命は鎮圧だけだ」と言い切った。 しかし選挙は無期限延期された。 ブラウン大佐はその後、第6師団長に書簡を送って「済州島は共産基地として組織されている」と主張した。 4・3研究者たちは「このような認識が済州島を除去すべき対象にした」と指摘する。

 1948年8月15日の政府樹立以後も、駐韓米臨時軍事顧問団と駐韓米大使館に代表される米使節団は4・3に深く介入した。 顧問団長ロバーツ准将は、焦土化が絶頂にあった12月18日、イ・ボムソク首相にソン・ヨンチャン連隊長の作戦能力を高く評価して作戦結果を広く広報すべきだと推薦した。米軍偵察機の操縦士は武装隊の集結地と戦闘状況を第9連帯に提供し、作戦を助けた。

 このような最中、1949年1月にはソ連の潜水艦と船舶の済州沿岸出現説が外信に大々的に報道された。 米国の ニューヨークタイムズとワシントンポストは、1月9日付の「ソ連潜水艦、済州島へ攻撃信号」と題した記事を通して、3隻のソ連潜水艦が済州島沿岸に現れて攻撃信号を送ったと報道した。 これは米国はもちろん、東南アジア、オーストラリアのメディアにまで大々的に報道されたが、これを裏付ける証拠は出て来なかった。

1949年1月、各種外信に報道されたソ連潜水艦の済州沿岸出現説はみな偽物と判明した=ハンギョレ資料写真//ハンギョレ新聞

 ムチオ駐韓米大使は同年4月9日、国務省に「済州島が韓国にテロを加えるためのソ連の主舞台として選択された。ソ連のエージェントが容易に済州島に浸透するのは確かなようだ」と報告した。研究者らは「このような報道と認識は、冷戦初期に済州島を米ソ直接対決の場と認識するよう世界の世論を形成しようとしたものだ」と分析した。

 特に李承晩(イ・スンマン)大統領は1949年1月21日の国務会議で、米国の援助が積極化されるよう「済州島と全羅南道地域の徒党を根こそぎ、苛酷な方法で弾圧して、法の尊厳を示さねばならない」と明らかにした。 次いで1月28日の国務会議では「済州島事態は米海軍が寄港して良い結果を出した」と発言した。

 李承晩のこうした発言を裏付ける文書が最近発見された。記者が日本の国会図書館で見つけた米軍文書から、李承晩の発言直後に米海軍が済州島を訪問した事実が明らかになった。

 米極東海軍司令部支援団が作成した文書(49年2月2日付)には、米海軍艦艇3隻が仁川を訪問し、1月24日に艦艇で開いた宴会に李承晩大統領、ムチオ大使、ロバーツ将軍などが参席したとなっている。文書はまた「ムチオ大使が、韓国政府が(米海軍艦艇の)済州島訪問を切に望んでいるとして済州訪問案を相談し、それによって計画を修正した」となっている。米海軍は1月25日、3時間余り済州に寄港して米軍顧問官などに会った。李承晩政府と米国の交感が成り立ったことを見せるものだ。その後も米軍と米大使館官吏らの済州島事態鎮圧についての関心と意見表明は引き続きなされた。

米軍兵士と済州島女性の姿=ハンギョレ資料写真//ハンギョレ新聞社

■ 米国責任論

 政府の真相調査報告書は「集団人命被害」と関連して「米軍政と駐韓米軍事顧問団も(その責任から)自由ではあり得ない」と明らかにしている。『朝鮮戦争の起源』を書いたシカゴ大学のブルース・カミングス碩座教授は去年6月、済州4・3平和賞授賞式に参加して記者と会い、「米軍政は1945年から3年間韓国を法的に統制し、その後も韓国軍の作戦統制権をもって軍事と警察を統制した」として米国責任論を提起した。

 ジョン・メリルは「4・3は米軍政期、ソ連との協力関係が破局を迎えて冷戦が根付いて行った時期に起きた。米軍顧問官は済州4・3の全期間にわたって済州島にいた。大韓民国政府樹立以前には、顧問官に直接的な指揮責任があった。しかし、大韓民国政府樹立以後は李承晩政府が展開した政策も原因の一つだ」として、政府樹立以前は米国の責任を、政府樹立以後は李承晩政府の責任を指摘した。

 済州4・3汎国民委などの団体は「済州4・3は米軍政が統治していた時期に起きた民間人大量虐殺事件だ。米国は4・3虐殺に対する責任を認めて謝罪し、それ相応の措置を取るべきだ。国連も調査と措置を取らなければならない」と主張した。 署名運動は済州とソウル、またオンラインを通して国内外でなされている。

ホ・ホジュン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/837633.html韓国語原文入力:2018-03-26 05:02
訳A.K

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