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[済州4・3ー70周年企画 1] オルレ道で出会った4・3

登録:2018-03-23 12:40 修正:2018-04-02 10:28
済州の土が血に染まって真っ黒だった…処刑場に行った9歳の私

 今年で済州4・3事件は70周年を迎える。済州4.3特別法は、済州4.3を「1947年3月1日を基点に、1948年4月3日に発生した騒じょう事態および1954年9月21日までに発生した武力衝突と鎮圧過程で住民が犠牲になった事件」と淡々と定義する。しかし、当時の済州島の人口の10%にのぼる2万5千~3万人あまりが犠牲になった「韓国現代史の悲劇」だった。その傷は今も残っている。70周年を迎え、4・3の現在的意味を5回にわたって振り返る。椿の花は4・3の時に赤い血を流して冷たい土の中で音もなく消えて行った済州島民を象徴する。

旅行客が済州オルレ1コースにある西帰浦市城山日出峰付近にある4・3当時の虐殺跡のトジンモクを通りがかっている//ハンギョレ新聞社

 済州オルレ(トレッキングコース)と有名観光地を訪れると、美しい自然に覆われた済州4・3が見える。済州オルレ17コース(観徳亭)では4・3の始まりを、1コース(トジンモク)と6コース(正房滝)、19コース(咸徳海水浴場と北村里)では虐殺を、13コース(失われた村・造水里下洞)では消えた村を、14コース(チン・アヨンさんの生活場)では個人の悲劇を、10コース(坑道陣地とソッアルオルム)では日本の植民地支配と朝鮮戦争時代の予備検束の現場を訪ねる。済州の悲劇的な近現代史が、そのまま道の上に残っている。

済州西帰浦市城山日出峰付近で黄色い菜の花をバックに写真を撮る周辺は、4・3当時、日常的な虐殺の場だった//ハンギョレ新聞社

2歳の時に失った母、夢に見た70代  
昨年の墓の改葬時「唯一の遺品」発見 
トジンモク・正房滝・北村里… 
オルレのいたるところに虐殺の跡が残る

■69年ぶりに訪れた母の銀の指輪

 「母にとても会いたくて、夢でもいいから一度会いたいと切に祈りました。30年ほど前のある日、夢の中にチマチョゴリをきれいに着た方がバスに乗って私の前に立ち、私を見ていたんです。直感的に母だと思いました。新陽里(シンヤンリ)の方に行き私はバスから降りて、その方はそのままバスを乗っていきました」

 2歳の時に母親を失った城山邑(ソンサンウプ)新陽里の“熟練海女”(潜り漁が一番うまい海女)のカン・スクジャさん(72)が「その母」に会ったのは、昨年7月だった。69年ぶりに移葬するために母の墓を開けてみると、夢の中で見た姿そのままに、母(オ・ゲチュン、当時36)の遺骨は70年たったにもかかわらず白くきれいで、歯もきれいに並んでいた。

済州4・3当時、トジンモクで母親が犠牲になったカン・スクジャさん(72、城山邑新陽里)が当時を証言している//ハンギョレ新聞社

 4日に会ったカンさんの左手の薬指には、ひときわ輝く銀の指輪があった。カンさんは「69年ぶりに母の墓の移葬作業をして、銀の指輪を見つけた。70年という歳月がたったのに指輪の色は変わらずそのままだった」と話した。

 「びっくりしました。『母さん、この指輪、私がしますね、ありがとう』と言いました。母もたった2歳の私をどれだけ大事にして愛していたか、『この子を置いて私が死なきゃならないのか』と無念に思い、私にあげようとしたのではないか、それとも私を育てられなかった母が、遺品でも私に渡そうとする気持ちがあったんじゃないかという気がしました」。69年ぶりにカンさんの手に渡った銀の指輪は、母の唯一の遺品となった。

昨年7月、69年ぶりに母親の墓を移葬して見つかったカン・スクジャさんの母の銀の指輪//ハンギョレ新聞社

 母親のオさんは、35歳で貴重な娘のカンさんをもうけた。母はカンさんが2歳の時の1948年11月27日、トジンモクで虐殺された。過ちは犯していないのですぐに帰れるだろうと思った母は、赤ちゃんのカンさんを背中におぶって家を出た。「サージのスカートにサージのチョゴリ」で首に手ぬぐいを巻いた姿のままトジンモクに連れられてきた母は、たまたま通りかかった隣人に服と首の手ぬぐいでカンさんをくるみ、姉さん預けてほしいと頼んだ。カンさんと母の最後の別れの瞬間だった。母がトジンモクで犠牲になる数カ月前には、父(カン・テヒョン、当時33)が行方不明になった。

 両親をなくしたカンさんは、母の姉(伯母)の手で育った。大きくなる間に伯母という事実を知ったが、亡くなるまで「母」として一緒に暮らした。

 カンさんにとって海は生活の場だった。4年前に夫と子どもたちに止められ潜り漁をやめたが、最近も一日潜って99キロのサザエを採るほど実力のある熟練海女だ。畑仕事をしていた頃も保険外交員をしていた頃も、海に駆けつけた。夜には子どもの世話をして家事をし、一日24時間では足りないほど懸命に生きた。15歳のころから本格的に潜り漁を覚えたカンさんは、慶尚北道浦項(ポハン)の九竜浦(クリョンポ)や慶尚南道の巨済島(コジェド)はもちろん、日本の三重県の島などに出かけ潜りをしてお金をためた。

 カンさんは「国会に行って政治家たちに『4・3を経験した人たちを暴徒と呼んで、安心して暮らせるようにしてくれたのか。補償が必要だと思うがあなた達はどう思うか』と言いたい」とも話した。

 「潜って漁をして稼いだお金で家も買い、畑も買いました。海がなかったら食べるのも困っただろうのに、海があったからご飯も食べられて、子どもたちを育てることができました。子どもを医者にまでしたので自慢できるでしょう」。涙があふれていたカンさんの顔に、笑みが広がった。

 10日午後、世界自然遺産である西帰浦市の城山日出峰(ソンサンイルチュルボン)へと向かう要所であるトジンモク。済州オルレ1コースの終点だ。穏やかに広がる海と青空が、城山日出峰を背景に一枚の絵を演出していた。道端にはレンタカーが長い列をなしていた。済州の春を知らせる黄色い菜の花を背景に、あちこちで観光客が自撮り棒を持って記念写真を撮りながら、全身で“春”を感じていた。

 一方には「済州4・3城山邑地域良民集団虐殺跡表示石」がある。カンさんの母親のように、城山邑地域の多くの住民がここで犠牲になった。トジンモクは当時、日常的な虐殺の場であった。国内外の観光客に済州で最高の絶景とされるここは、住民たちが言うように「恨みと涙の地」だ。4・3の焦土化の時期の1948年秋、西北青年団で構成された特別中隊がここに駐屯し、この絶景の場は「死と慟哭の声」が絶えない場所に変わった。1948年10月から翌年1月までにここで虐殺された住民は400人以上だ。

 一カ月の日程で済州に来て、済州オルレを歩いて3日目になるチョ・ジェドゥさん(42・京畿道安山市)が、集団虐殺跡の表示石の前でスマホで写真を撮っていた。済州市から出発する18コースから歩いているチョさんは「こんなにつらい歴史があるなんて知らなかった。オルレを歩きながら4・3を知るようになった。済州市朝天邑(チョチョンウプ)北村里でも見たが、ここでも見ることになった。このような絶景地が70年前には虐殺の場だったということを知って胸が詰まる」と話した。

オルレ19コース、北村里で約600人虐殺  
処刑待つ間に命拾いしたコ・ワンスンさん  
「母の背中でむずかっていた3歳の弟を  
軍人が棒で頭を二度殴りつけた」 
北村町の虐殺の時に両親を亡くした3人の友達  
「あの日運動場で起きた出来事、どうやって忘れられようか」

■処刑場で生き残った少女

 「北村里の窪畑(オムパンバッ)の赤黒い色の土が、血に染まって真っ黒だった。午後4時が過ぎ、太陽が雲の合間にちらちらと現れるたびに、氷に光が反射するように血の色がビー玉みたいにぴかぴか光った。顔は涙まみれで寒かったが、寒いという気はしなかった」

 1949年1月17日、当時9歳だった北村里の老人会長のコ・ワンスンさん(78)はノブンスンイの窪畑の処刑現場をこのように描写した。背後では小銃のガチャガチャという音が聞こえた。3歳の弟をおぶったコさんの母親は、片手に姉(当時16)の手を、もう一方の手にコさんの手をしっかり握っていた。窪畑に連行されたコさん家族は処刑の瞬間を待っていたが、劇的に生き残った。窪畑にはたったさっき処刑された住民たちの死体があちこちに散らばっていた。

済州市朝天邑北村里の老人会長のコ・ワンスンさんが、4・3当時処刑場だったノブンスンイの窪畑に連行され虐殺の直前ぎりぎりに生き残った経験を話している//ハンギョレ新聞社

 急に軍人が乗ったジープが現れ、住民たちはその後すぐ「中止、中止」という声を聞いた。コさんの家族はこのように命拾いした。

 これに先立ち、コさん家族は北村小学校の運動場で生と死の淵でさまよった。コさんは押し出されて、すでに死んでいるおばさんを触り、手には血がついた。コさんが「わあ、怖いよ」と言うと、母の背に負われていた3歳の弟も「家に帰ろう」とむずかった。棒を持った軍人が弟の頭を二度殴りつけると、静かになった。弟は長いこと患い、1952年に死亡した。

 「北村里の女性たちは潜って漁をして、粟畑で草刈りして、みんな足が曲がってしまった。それでもこの村を守って来た人たちは女性だよ」

 2012年11月、北村里ノブンスンイ4・3記念館で文在寅(ムン・ジェイン)当時大統領候補に会ったことがあるコさんは、昨年末「私たちの村の北村は、4・3の恨みを晴らすことができず70年の歳月を生きてきた。4・3の痛みを解決してくれるのか、時には期待してようやく生きていられる。済州に来たらノブンスンイ4・3記念館でもう一度必ず会いたい」という手紙を書いて送った。コさんの夢は叶うだろうか。

 3日、済州オルレ19コースにある北村里ノブンスンイ。光州(クァンジュ)から来た光州第一高校教師のキム・ビョンソプさん(41)とパク・ジョンホンさん(50)が、北村里の住民イ・サンオンさん(56)と4・3ノブンスンイ遺跡地を回りながら話をしていた。28~30日の修学旅行のために事前下見をしていた。パクさんは「4・3を詳しくは知らないが、5・18と比較されたりもし、歴史的にあらためて照明を当てられる現場なので訪ねてみることにした。このような歴史がオルレ道にあったことを知らなかった」と話した。キムさんは「今回の機会を通じて、生徒たちに4・3を知らせる計画だ」と話した。

 玄基榮(ヒョン・ギヨン)の小説『順伊(スニ)おばさん』の舞台として知られる済州市朝天邑北村里は、1949年1月17日、武装隊の襲撃で軍人2人が犠牲になり、これに対する報復として2連隊3大隊の虐殺劇により、一日で北村小学校と近くの畑などで約200人を超える住民が虐殺された場所だ。虐殺が起きた翌日、近くの咸徳里(ハムドンニ)に疎開した住民たちは、再び「逃亡者家族」か「入山者家族」という名で処刑された。二日間で老若男女を問わず300人あまりの住民が虐殺された。北村里では4・3の時期に合わせて600人以上が犠牲になったという。しかし、依然として虐殺の主体は「2連隊3大隊」とだけ知られてるだけで、詳しい内容は明らかにされていない。

■58年ぶりに会った三人の友達

 「泣きに泣きました。北村事件の時に起こったことが自然に話題にのぼりました。北村小学校の運動場で起きたことを、どうやって忘れられますか。幼くてもその時の記憶を一生抱えているのに…」

 58年ぶりに会った友達の話で、たちまち涙が浮かんだ。 昨年4月、キム・ヒョンオクさん(75・済州市東光路)は、ソウル恩平区(ウンピョング)のある食堂で、故郷の後輩のイ・チュンエさん(74・ソウル)とキム・ヨンヒさん(72・ソウル)に会った。 キムさんとイさんは頻繁に会っていたが、10代半ばに母をについて行き潜り漁をして江原道に定着したヨンヒさんは会えなかった。 偶然の機会で連絡が取れるようになり、1960年に別れてから58年ぶりにソウルで会った。友人らは抱き合って涙を流した。

昨年4月、ソウルで58年ぶりに会ったイ・チュンエ、キム・ヒョンオク、キム・ヨンヒさん(左から)。イさんがヨンヒさんに北村小学校の歴史を書いた本を見せ当時犠牲になった父の写真を探してはと言うが、ヨンヒさんは父の顔が思い出せない=キム・ヒョンオクさん家族提供//ハンギョレ新聞社

 北村里の虐殺が行われた1949年1月17日、彼女たちはみな母親や父親の手を握って北村小学校の運動場にいた。キムさんは6歳、イさんは5歳、ヨンヒさんは3歳だった。キムさんは父(キム・ユシン、当時50)を、イさんは母を、ヨンヒさんは父を失った。生まれた日は違うが同じ日に父や母を失った彼女たちは、お互いを支えながら親しく過ごした。

 キムさんの母親(イ・チャボク)は1男3女の子どもたちと残された。北村事件の翌日、8歳上の姉のキム・クムテクさん(83)は、幼いキムさんを背負って母親と一緒に咸徳のおばさんの家に行った。数日後、母は故郷に来て葬儀も行えないまま、父親の死体にかますをかぶせて畑に埋めた。他の北村の人たちと同じく、キムさん家族の辛酸をなめる日々もその時から始まった。

 咸徳に行ったキムさん家族は、春になると再び北村に戻った。しかし、すべて焼けてしまった村は廃墟同然だった。

 「両親が北村の事件が発生する前に、時局がどうなるか分からないから小さな壺に多少のお金を入れて畑に埋めておいたんです」。燃えてしまった家の跡地で、母は菜園に埋めた壺を掘り出した。それは4・3以後、キムさん家族の生存の元手となった。そのお金で櫛を買い、中山間村で売って歩いた。

済州市朝天邑北村里出身のキム・ヒョンオクさんが、4・3当時両親が菜園にお金を入れて隠しておいた壺にまつわる話をしている//ハンギョレ新聞社

 キムさんは「家の跡地に丸く石垣を築き、その上を覆って掘っ立て小屋を作った。三家族が一緒に暮らしたが、うちの家は5人家族、他の家は3人家族、また他の家は5人家族で、全部で13人が掘っ立て小屋で暮らした」と回顧した。皿がないのでアワビの貝殻を使い、食べるものがないのでひじきや青海苔と麦を混ぜたひじきご飯、青海苔ご飯、クラゲを混ぜたクラゲご飯で生計を維持した。

 咸徳から北村に越して2カ月ほどたったある日、今度は3歳下の妹が栄養失調で死んだ。兄のキム・チョルさん(79)は当時、はしかで聴力を失い生活に大きな支障を負った。伝染病がはびこり飢え死にする人が続出していた時期だった。同年6月には弟のヒジュンさん(69)が忘れ形見として生まれた。母は弟を出産して23日後には赤子を背負い、焚き物を買って人の馬車を借りて乗り、市内に出て売った。

 キムさんは「あの頃の話をすべて話すなんてとてもできない。私だけではなく、数年前に亡くなった夫は母が銃殺される現場を直接目撃したが、その心境はどれほどのことだったか。文章さえ書けるなら、小説を書いても何冊か書ける」と話した。

 「生きてきた過程はみな同じです。お互い話さなくても分かるんです」。キムさんの目には、たちまち涙が溜まった。

済州/文・写真ホ・ホジュン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/society/area/836825.html韓国語原文入力:2018-03-20 15:04
訳M.C

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