専門家の観点で見ると、北朝鮮軍の創軍日変更は、皮肉にも金正恩の実用主義的統治スタイルを示す象徴的事件である。金正恩が先代の構築したこの不合理な“神聖”の域に足を踏み入れたのが、まさに創設記念日の変更である。
北朝鮮が人民軍創建記念日を平昌(ピョンチャン)五輪開幕前日の2月8日に変更したことで、韓国社会で波紋が広がっている。一部では、北朝鮮が平昌五輪に水を差すため、創設記念日を移したと主張すると共に、同日に核ミサイルパレードなど挑発的な行動をするものと予測している。このようなことが発生すれば、平昌五輪の成功を「心から願っている」という金正恩(キム・ジョンウン)委員長の言葉の価値は大きく失われるだろう。
北朝鮮が2月8日の行事をいかに進めるかを見守らなければならないが、創設記念日の変更が平昌を狙った動きではないことは明らかだ。本来、北朝鮮軍の創建日は1948年2月8日だった。ところが、1978年、金日成(キム・イルソン)が青年時代に中国の安図県で組織した反日人民遊撃隊(北朝鮮表現は「朝鮮人民革命軍」)の結成日である1932年4月25日に創設記念日を変えた。「金日成が光復後、この遊撃隊を正規的な革命武力に発展させて朝鮮人民軍を作った」いう主張に基づいた変更だった。1996年には4月25日が祝日に指定された。
しかし、北朝鮮は2015年から、記念日名簿から消えた2月8日を「正規的な革命武力建設」の日だとして、再び記念し始めた。その延長線上で、70周年を迎える今年、同日を創設記念日にし、「建軍節」として公表した。
事情はどうであれ、今回のことで平昌五輪の前夜に北朝鮮軍の大規模な軍事パレードを見ることになるという懸念が高まった。同時に、金正恩の好戦的なイメージも重ねて国民の脳裏に刻み込まれた。しかし、専門家の観点で見ると、北朝鮮軍の創軍日変更は、皮肉にも金正恩の実用主義的統治スタイルを示す象徴的事件である。
1970年代、北朝鮮では、後継者金正日(キム・ジョンイル)の主導の下、歴史と制度の出発点を金日成(キム・イルソン)中心に叙述した抗日時期に合わせようとする動きがあった。その一環として、軍創建日も1932年4月25日に遡ることになった。主体思想が極端に観念化され、金日成に対する個人崇拝がピークに達した時期に発生したことだった。同期に北朝鮮の制度に浸透した非合理的な要素は、「革命伝統」という神聖不可侵の鎧をまとい、至る所に布陣している。ところが、金正恩が先代の構築したこの不合理な“神聖”の域に足を踏み入れたのが、まさに創設記念日の変更である。普通の国に向けた動きと言える。
実際、北朝鮮社会を詳しく見てみると、金正恩の実用主義的スタイルを容易に発見できる。例えば、飢えた人民の前に「強盛大国」の虚勢を張った金正日に比べ、金正恩は「強盛国家」を目標にしている。金正日は先軍政治を掲げて、軍人たちに元帥や次帥、大将などを乱発し、階級インフレを誘発したが、金正恩は多くの将軍らを降格し、階級インフレを抑えた。彼は経済を開放すると共に、農民に生産競争システムを導入し、増産を促している。通常、核心幹部に対する粛清が行われると担当する事業分野もめちゃくちゃになるものだが、金正恩は叔父の張成澤(チャン・ソンテク)を処刑しながらも、彼が主導していた経済開放政策だけは維持した。
観察者の立場で見ると、金正恩は、盲目的好戦主義者というよりは、実利のレベルで好戦主義を選んだ側面が大きい。それなら、好戦性の裏にある彼の実用主義を活用する道はないだろうか?彼が体制の安全を守るため、実利のレベルで核兵器の開発にこだわっているのなら、彼に米国から体制安全を保障されるという確信を持たせて、反対の選択をするよう促すことも考えられる。さらに、彼は核開発のもう一つの目的である権力の強化をすでに実現した。にもかかわらず、制裁のために自らが追求する経済発展は妨げられている。
北朝鮮は昨年11月末、大陸間弾道ミサイル(ICBM)級火星-15型の発射の後、「国家核武力の完成」を宣言した。しかし、多くの専門家が、北朝鮮がICBMを完成させるためには追加の試験発射が必要だと指摘している。これまで、北朝鮮の公式発表と核・ミサイル開発の進み具合はほぼ一致していた。ところが、今回はなぜ北朝鮮が“性急に”核武力の完成を宣言したのだろうか。
交渉の余地を残したのではないか。最近、金正恩の新年の辞と平昌五輪参加を見て、考えていることだ。今は平昌が開いた南北対話局面を活用し、韓国だけでなく、中国とロシアも北朝鮮を説得しなければならず、米国も、金正恩の実用主義的な側面を刺激できる、非核化の見返りになる北朝鮮体制安全保障カードを真剣に検討する必要があると思われる。