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[寄稿]韓国、ポリフェッサーたちの天国

登録:2018-01-02 22:20 修正:2018-01-06 15:01

 韓国で専任大学教員の身分は例外的で特権的だ。相当な象徴資本を手に取る上に、定年保障を受け、他の職種に比べて時間的冗長性を持つ。ジャーナリスト、宗教界の要人に比べてもほとんど顔色を伺う必要も無い、うらやましい身分だ。それでは権力の牽制を学界に期待しても良いのだろうか?

 なぜ俗称“ポリフェッサー”らが、唯一韓国で大手を振るうのか?韓国の学界で、国家権力は牽制の対象というよりは、あまりにも身近な癒着の対象であるためだ。すでに社会貴族になったいわゆる“名門大”の専任教授は、政治・行政エリートとのネットワーキングを離れては存在できない。

イラストレーション:キム・デジュン//ハンギョレ新聞社

 2017年は、1917年のロシア革命の100周年だった。ところが、同時に1927年トロツキー派の大々的な弾圧の90周年でもあり、1937年大粛清の80周年でもあった。1927年には、1917年革命で執権したボリシェヴィキ党内での理念・路線・権力の衝突が露骨になった。保守的な「一国社会主義」、すなわち事実上の開発主義路線を好む党内スターリンらの主流派は、「世界革命」と「党の民主化」を要求したトロツキーら党の非主流派を弾圧し始めた。

 トロツキーは党を除名され、彼の多くの支持者が解職や流罪、逮捕の苦痛を味わうことになった。1917年の革命以前に帝政ロシアの権力者が革命家たちを弾圧した手法で、革命政党の保守派がそのライバルである急進派を弾圧し始めたのだ。その弾圧は、1937年に想像を越えたおぞましい頂点に達した。急進派を含む約50万人が銃殺刑に処され、高麗人のように革命初期に少数者優待政策の受恵者になったマイノリティは、罪もなく強制移住させられなければならなかった。言ってみれば、1927年と1937年に1917年の革命に対する反革命が成り立ったわけだ。

 私は歴史の中の人間心理の次元で、この部分についていつも気になっていた。1927年と1937年の被害者だけでなく、加害者も革命家出身だった。スターリンは結局、粛清・恐怖政治の代名詞になったが、本人も革命以前には監獄と流罪地を転々とした政治弾圧の被害者であり、1913年に近代的意味の“民族”が資本主義の発展過程においてのみ誕生するという点を明確にして、民族主義者の“民族”神秘化に強力に反論した著名な冊子を出した理論家でもあった。

 1927年に党内の急進派弾圧を主導した当時の秘密警察の首班であるゲンリフ・ヤゴーダ(1891~1938)は、15歳で「直接行動」を企てようとした共産主義的無政府主義者らの行動隊に加入した「革命青年」出身だった。同じように1937年にソビエト遠東での秘密警察総責任者として高麗人の強制移住を主導したゲンリフ・リュシコフ(1900~1945)も15歳から地下で危険千万な革命活動を始めた。1937年の大粛清を主導した当時の秘密警察の首班で、数十万人を銃殺刑に処させた希代の殺人魔であるニコライ・エジョフ(1895~1940)は、十代初めからつらい肉体労働をしながら不断に読書して、独学に熱を上げた典型的な「先進労働者」出身だった。彼らは皆、一時は理想主義的気質を見せ、命を差し出して革命に参加したが、果たしてどうして最悪の弾圧者になってしまったのか? 私としては、このことを常に不思議に感じていた。

 ところが答はとても簡単だろう。いくら15歳から革命に身を投げた理想主義者や、独学でマルクス主義を学習した労働者出身だとしても、一度権力をつかんだ人の世界観は大慨変わることになっているということだ。人間は弱い存在だ。トロツキーとその一部の支持者のように、執権しても急進性を失わなかった例外的ケースはあるが、普通の場合には権力と特権を享受することになれば権力の維持・拡大こそが焦眉の関心事になる。「権力が人間を堕落させる」というけれど、正確に言えばその「堕落」の内容は、政治的な保守化と民衆の痛みに対する関心の蒸発などだ。いかなる位階秩序的な体制でも、権力の世界と民衆の世界は明確に分離していて、一度前者に身を置くことになれば後者とは塀を作ることになっている。

 権力とは、ことによると麻薬よりさらに強く素早く個体の考えだけでなく性格や人格、対人態度も変えてしまう。事実、マヤコフスキー(1893~1930)のような革命詩人が、1920年代に最も多く扱った素材の一つはまさに「共産党員の傲慢さ」(ロシア語で“komchvanstvo”)だった。ほんの数年前まで獄中や流罪地で皆が平等になる世の中のために戦っていたかつての革命家が、革命以後に官僚になり、突然自身より身分が低いように見えた人々にむやみにぞんざいな態度をとり、酔った勢いで食堂のウェイターに暴力を振るうなど、破廉恥の極限状態を見せることになる状況をマヤコフスキーの風刺詩に見ることができる。このような詩を読めば、権力以上に恐ろしいものはないという気がする。

 権力は危険千万だ。人権弁護士出身でも、生涯弾圧を受けてきた民主化活動家出身でも、権力を握れば人権と抑圧される民衆のための政治をする保障はない。あえて1920~30年代のソ連の話をしなくても、無念な監獄生活を経験した民主化運動家でさえ、後に公企業の社長などになって、労働弾圧を行った人がいるではないか?だから、私たちに真に必要なことは、単純に「進歩人士」らを要職にあまねく任命する「進歩的大統領」ではない。いくら出発点は「進歩」だったしても、執権以後の保守化はほとんど避けられない。私たちに真に必要なことは、いかなる権力者にも圧迫を加えられる権力牽制システムだ。権力から自由な牽制メカニズムがあってこそ、権力者の避けがたい既得権擁護などをそれなりに若干でもバランスを取ることができる。そうしたメカニズムが1920~30年代のソ連に存在しなかったことが、社会主義革命の歪曲と変質をその誰も防げなかった主な理由の一つであった。

 それでは、現在の韓国にそのようなメカニズムが果たして存在するだろうか? 普通は政治権力の牽制をメディアに期待するが、いくつかの例外的なケースを除けば、韓国の主流マスコミはほとんどみな経済権力に従属していて、“下”の利害関係を標ぼうする政治権力の批判者になることは難しい。宗教界に何らかの期待をすることが難しいのは、韓国社会において主流宗教界こそが政治権力以上に強固で非民主的な既得権を形成しているためだ。それでは学界はどうだろうか?事実、韓国で専任大学教員の身分は例外的で特権的だ。相当な象徴資本を手にしている上に、めったに見られない定年保障を受け、他の職種に比べて時間的冗長性を持つ。ジャーナリスト、宗教界の要人に比べてもほとんど顔色を伺う必要もない、うらやましい身分だ。それでは権力の牽制を学界に期待してもかまわないだろうか?

 残念ながらそうではなさそうだ。大学教授出身者を、特に経済、技術分野の政府要職に任命し「教授評価団」に国政関連課題を任せ、専任教授の賃金を大幅に引き上げさせる反面、時間講師から教員の地位を剥奪した朴正煕(パク・チョンヒ)時期以後、韓国での「官学」癒着は一つの典型的なパターンになった。教授は権力を牽制するというよりは、彼らが持っている象徴資本を踏み台にして自らを権力者の隊列に参加させようとする。最近20年間の歴代内閣の構成を見れば、教授出身長官の比率は4分の1から3分の1程度を占めている。保守、進歩政権の差はそれほどない。韓国ほどに教授の政府要職任命が頻繁な国はほとんど見つけるのが難しいほどだ。

 なぜ俗称“ポリフェッサー”らが、唯一韓国で大手を振るうのか?韓国の学界で、国家権力は牽制の対象というよりはあまりにも身近な癒着の対象であるためだ。すでに社会貴族になったいわゆる「名門大」の専任教授は、政治・行政エリートとのネットワーキングを離れては存在できない。教授にとって政界は、多くの場合に牽制の対象というよりはロビーが上手で大型プロジェクトを取ってくることができる「恩恵授与者」だ。政治家らと親しいことが長所になって自慢になる教授社会では、ポリフェッサーたちが批判を受けるどころか所属学校で「接待」を受けるのだ。

朴露子(パク・ノジャ、Vladimir Tikhonov) ノルウェー、オスロ国立大教授・韓国学//ハンギョレ新聞社

 「ポリフェッサー」らが、官界の出世街道を走ると同時に「名門大」教授層を始めとした「教授社会」は、権力を牽制する代わりに既得権の世界に安住することになる。しかし、特権化するだけに、教授はますます民衆からの尊敬を失うことになる。「教授先生」という言葉が傍若無人の傲慢、俗物的な権力指向、自ら統制できない物欲などの同義語のように聞こえる時代が間もなく来るだろう。

朴露子(パク・ノジャ、Vladimir Tikhonov) ノルウェー、オスロ国立大教授・韓国学 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/opinion/editorial/826025.html韓国語原文入力:2018-01-02 18:28
訳J.S

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