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[特派員コラム]3年半の失敗

登録:2017-03-23 23:08 修正:2017-03-24 07:20
キル・ユンヒョン東京特派員 //ハンギョレ新聞社

 大きなスーツケースを二つ、ずるずる引きずって都営浅草線人形町に降りたのは2013年9月14日だった。たどたどしい日本語で不動産屋に電話をかけて、今後の3年半を暮らすことになる部屋の鍵を受け取ることで「長く短かった」日本での生活が始まった。今、帰国を目前にして最後の特派員コラムを書いて見たら、当時のときめきや緊張が思い出されて、なぜか胸が痛い感傷に浸ることになる。

 私が日本に関心を持った契機は、それこそ偶然だった。2004年に東大門(トンデムン)警察署(現、恵化<ヘファ>警察署)担当だった私の“ナワバリ”の中に民族問題研究所があった。親日清算など「歴史立て直し」を重要国政課題にしていた盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権時期だった。研究所を行き来するうちに新たに親日疑惑が明らかになった人物と強制動員被害者の話を聞き、さまざまな記事を書いた。そんな風にして始まった日本関連取材がすでに13年に達する。

 日本特派員として赴任する前、私が理解していた日本は「暖かい市民社会の日本」だった。2005年10月、初めて日本の領土を踏んだ時の記憶は今なお鮮明だ。当時、日本の市民社会は、植民地時期に日本政府が韓国と台湾でハンセン人(ハンセン病回復者)に対する強制隔離政策を展開し人権を侵害したことに対して「被害を補償せよ」という訴訟を提起していた。その1審判決の取材のためだった。韓国大法院(最高裁)は今年2月に自国のハンセン人に対する「断種・堕胎手術」に対して国家の賠償責任を認めたが、日本政府はそれより11年も前である2006年に外国人である小鹿島(ソロクド)のハンセン人にも1人当り800万円の補償金を支給することを決めていた。

 当時の取材は私にとって新鮮な衝撃だった。日本に急に好感を感じた後、日本語が勉強したくなり、金浦(キンポ)空港に到着するとすぐに『私の初めての日本語』という初級文法の本を買った。その後、韓国と日本の友好協力を望む善良で暖かい多くの日本人に会うことができた。それで、日本に赴任すれば健全な日本の市民社会の動きをしばしば紹介し、韓日関係が良い方向に発展することに役立とうと堅く誓った。

 そして、不幸にも私はその約束を守れなかった。民主党政権の虚しい没落以後、「再登場」した安倍晋三首相は、健全な韓日関係の基盤になってきた河野談話、村山談話を事実上解体した。彼が2015年8月に発表した安倍談話は、日本が朝鮮半島で行った植民支配に対して一言半句も言及しなかった。その代わりに談話が表わしたものは、「私たちの子供や孫に謝罪を継続する宿命を負わせてはならない」という、奇妙な「自分の憐憫」だった。以後、安倍首相は日本の平和主義を傷つける安保関連法制を改定した。最近日本社会を揺るがしている森友学園スキャンダルの収拾がついたら、自身の「一生の課題」である改憲のために本格的な世論動員を始めるだろう。

 振り返ってみれば、2000年代「韓流」ブームに象徴される韓日関係の黄金期を切り開いたのは1998年の金大中(キム・デジュン)-小渕パートナーシップ宣言だった。この文書の基盤になったのは村山談話と日本人が長く誇らしく守ってきた平和憲法だ。安倍首相が韓日間の友好・協力を支えたこの二つの前提を否定したので、今後私たちは何を根拠に両国の未来を論じるべきか、残念で仕方がない。

 韓日間の不和はすでに構造化の段階に入り込んだのかもしれない。過去の歴史はわきに置き、安保協力を強化しようという日本と、これに同意できない韓国の間の軋轢は長期化するだろう。慰安婦問題などを媒介に最近4~5年間に拡大した韓日軋轢は、もしかしたら今後迫りくる巨大な破局の入り口に過ぎないのかもしれないとまで思う。そうした意味で、3年半にかけた私の特派員生活も結局はすさまじい失敗だったという結論を下すほかはない。

キル・ユンヒョン東京特派員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/787763.html 韓国語原文入力:2017-03-23 18:27
訳J.S(1745字)

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