私の3年間の東京生活を共にしようと決心した妻が、勤め先を休職して日本に入国したのは2013年の12月だった。 2年半で妻の日本語の実力は日進月歩した。 初めは目に入る看板を見れば「これは何?」 「あれは何?」と(いちいち)尋ねていたが、今は難しい漢字の名前や地名も十分に読める水準になった。 そんな妻がいつの頃からか口ずさみ始めた歌があった。 「そんな時代もあ~ったねと」という歌詞が面白くて調べてみると中島みゆき(64)の『時代』という歌だった。
しばらく忘れていたこの歌の歌詞を再び思い出したのは先月14日に起きた熊本地震の現場を取材している時だった。
歌が提案しているのは、どんなに悲しいことが起きても、それにばかり執着しないで、すべて風にパラパラと飛ばしてしまおうということだった。 <今はこんなにも悲しくて 涙もかれ果てて 二度と笑顔にはなれそうもないけど>という歌詞で始まるこの歌は、<そんな時代もあったねと いつか話せる日がくるわ>と突如反転した後、<だから今日はくよくよしないで 今日の風に吹かれましょう>と続く。
熊本の災害現場で会った日本人たちは、実際、今日の悲しみを風に飛ばしているように見えた。 外国の記者たちが崩れた家屋の周りに集まって名前を尋ね、年齢を尋ね、家族関係を尋ね、被害状況を尋ね、その後には厚かましくも手帳に名前を漢字で書いてほしいとお願いしても「あっちに行け」といやがる素振りを見せる人はいなかった。
日本での生活にある程度慣れたためなのか、崩壊した家の前から離れられずにいる人に初めて投げかけた質問は、「地震保険に入っていましたか?」だった。 マグニチュード7.3の地震が再び熊本を強打した16日夜、益城町の自宅前の駐車場で夜を過ごしたタカモト・タエコさん(60)は「そうですねえ、どうしましょうかね」(入っていなかったという意味)と答えたし、翌朝に会ったノダ・ヒロアキさん(56)も「熊本は地震がないところでした」(同じく入っていなかったという意味)と答えた。 永年かけて築いてきた財産の結晶である家は崩れたが、住宅融資も残っているだろうに…。 地団駄を踏むのはむしろ記者の側で、彼らからは怒りや恨みの痕跡は殆ど見られなかった。
これで話は終わりだろうか。 そうではない。 韓国とはあまりに違うこのような外見上の平穏さだけを見るのは、日本の半分しか見ていないという気がする。 福島原発事故後、日本社会はしっかりした原因糾明のために政府、国会、民間が事故原因を追跡し、それぞれ独立した報告書を出した。 これを基に今年2月末、東京電力の元幹部の刑事責任を問うための歴史的な起訴が行われた。 「じっとしていなさい」という教師の指示で児童74人が津波に襲われ亡くなった大川小学校の惨事跡も今年3月末に保存が決定された。 もちろん遺族たちの損害賠償訴訟も進行中だ。 時間がかかっても少しずつ問題解決の糸口が見出せる日本社会の姿から、セウォル号の問題をまだどうにもできずにいる韓国社会の現在を見る。
今年で60周年をむかえる水俣病に対する社会的関心、ハンセン病隔離施設に設置された「特別法廷」の人権侵害を問い質す数十年間にわたる闘争、米国のバラク・オバマ大統領の訪問をしつこく要求してきた広島の努力まで。 日本人が風に飛ばして送ったものがあるならば、それは悲しみだけで、記憶そのものではない。