「死ぬということは私たちが考えるほど不合理なことではありません」。一日に38人が自殺する世界最大の自殺共和国である韓国で、ソウル大生が自殺したからと特に注目すべきことでもないが、私は彼が遺書に残したこの一言をここ数日、度々繰り返している。 個人的理由もあっただろう。 しかし「すべての自殺は社会的他殺」という理論を支持する私は、他の青年に較べて将来がさほど悲観的ではなかったはずの彼の自殺事件と、その数日前に簡易宿泊所で孤独死を迎えたある青年の死亡事件を、極めて重く受けとめた。
数日前、2学期最後の講義時間に私は今日の青年問題についてグループに分かれて討論させた。 学生たちの大多数は、今日の青年問題を世代問題と見てはならないと考え、「人生ははかない…、無限の苦痛の連続、これ以上生きていても果たして希望はあるだろうか、虚しい、日常を変える力がない…、もっと世の中がはやく変わらなければならないと思っていたが、今はもう変わらないだろうという気がする」と話した。 学生たちはこの社会が今より良くなるだろうとは期待していないと異口同音に言った。 この頃の流行語である「箸匙論」が上で紹介した自殺学生の遺書にもあったが、生まれる時に咥えていた箸と匙が運命を左右するならば、すべての努力は無駄なことになりこの世は「不合理」の極限状況である地獄に相違ない。 私は「なぜ青年たちは怒らないのか」と既成世代特有の質問も投げかけたが、彼らは「怒りは感じるが怒る方法が分からない」と答えた。 世襲資本主義の小さな隙間で生き残るため足掻きしている孤立した個人の群像を見るようだった。
ハンナ・アーレントは『全体主義の起源』で、ドイツのヒットラー体制の登場は社会の原子化、社会解体の結果だと強調している。 すなわち、全体主義勢力は大衆の不安に便乗して社会的な絆を先ず破壊した後に、容易に権力を握ることができた。 国民の誰も権力を信頼していないが、誰も権力の逸脱と強圧、偽りと暴力に抗議したり怒りを表出しない理由は、皆が相互に監視役となり、不安と危機意識を持つすべての人が互いを競争相手と感じて赤裸々な私的欲望以外は表わそうとしないためだ。
李明博(イ・ミョンバク)政権時には、貪欲と不法で生きてきた長官候補らが政府の責任を負うと大声を上げることを疎ましく思った人々が、マイケル・サンデルの『正義論』に強い関心も持ったことがあるが、朴槿惠(パク・クネ)政権になってからは、もう正義を語ることさえ不毛なことのように感じているようだ。 どんなにあきれたことでも、繰り返されればそれが普通のことになってしまい、深刻な嘘も大型拡声器で繰り返し流布されれば、それが嘘だということを知っていながらも人々は反論する意欲を喪失してしまう。 数日前のセウォル号聴聞会のように、すべてのマスコミが完ぺきに黙殺して、世の中で起きているどんな重要で深刻なことも見えなくて聞こえなければ、告発して暴露する人が愚か者になってしまう。
権力の総体的無責任、すなわち全てのことは個人責任とされる世の中だ、鉄面皮、ゴリ押し、欲望扇動、そして脅迫によって体制が維持される。 くたびれ果てた大衆が、怒りを表現する能力まで喪失すれば、国家のうわべは華麗で完全であっても中身はみな腐って空胴になっている。 ただ一人で言うだけだ。官僚や記者は書き写すだけで、いかなる意見も提示しない。おそらくもっと深刻な危機が到来しても、誰も責任を負わないだろう。 皆、させられてしているだけだ。
選挙が近づいた。立候補者は街頭を駆け巡り票のために握手を求める。 何を根拠に政治をするつもりなのかと、頬を力いっぱい引っぱたきたい心情は私だけではないだろう。 解体された社会を放置していて政治を建て直せるのか? 孤立し破片化された“乙(弱者)”を集めて大声を張り上げさせてこそ希望が見えるだろう。 人と人との関係が蘇り、論争が始まってこそ政治が建て直され、それでこそ、この殻の下に新しい肉が育つだろう。