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[寄稿] 映画『国際市場』は全体主義美学の饗宴

登録:2015-05-12 22:07 修正:2015-05-17 05:23

映画『国際市場』の英語のタイトルは『私の父への賛歌』だが、“賛歌”という言葉が映画の基本コードをよく示している。 賛歌の中では歴史の不都合な真実も被害者の苦痛も忘却され消えてしまうことは、戦争と権威主義の残酷な歴史が繰り返される可能性を高めるだけで、個人の独立的個性や人権を消去させてしまう極右的考え方を現代風に再包装し再流布させようとする一つの試みだと見ざるをえないだろう。 下からの歴史、被害者本位の歴史を叙述することが私たちの役割だ。

イラストレーション:キム・デジュン //ハンギョレ新聞社

 完ぺきな客観的歴史叙述はおそらく不可能だ。万人に起きる多くのことのうちで「最も重要だ」と判断して何種類かを選び、何らかの叙述の枠組みで括るということは、すでに取捨選択と説明の主体、そしてその主体の何らかの立場を前提とするためだ。 主体が生きていく人生の中には既に政治が溶けているために、歴史という叙事は常に政治的だ。 “私”は他者に対して“私”と同じ生活を送り同じ政治的立場を取れとは要求できないので、叙述主導者の多様性同様に歴史書叙述も当然多様でなければならない。 “私”はいくら進歩を掲げていると言っても、保守的歴史叙事の存在を認めるのは民主社会として当然だ。 しかし、多様性を尊重する社会が成立するためには一つの条件が満たされていなければならない。 いくら自分の立場と同じ歴史を叙述しても、露骨な事実歪曲や自明な加害-被害関係に対する度外視はタブーとしなければならないということだ。

 進歩的歴史叙述と言えども、当然に過去の不都合な面については自省的に話すことが求められる。例えば保導連盟虐殺など朝鮮戦争当時の韓国政府の国家犯罪や反人権的連座制運営などについて語る時、左派陣営ないしは北朝鮮人民軍についても、右派当人だけでなくその家族までも犠牲にするなど、事実上の連座制を実行したケースがあったという点も認めなければならない。 また、例えば1990年代末まで続いた政府保安機関の政治犯拷問を語る際に、反対に1997年まで一部の運動圏の学生たちが行ったりした“偽装活動家(スパイ)容疑者”に対する暴行・致死事件も同時に言及することが正しい。兵営国家で抵抗者の人権意識水準も軍事文化の野蛮性が作り出した“平均”を決して超えられなかったという事実を認めてこそ、全体の人権感受性が成長できるためだ。 進歩の歴史も自省的であるべきだが、保守の歴史叙述にも同じ基準を適用するのが妥当だろう。

 しかし、最近映画興行で大きく成功した『国際市場』という映画を見ると、自省はおろか韓国の主流にとって不利な事実関係さえ認めない態度がまざまざと見える。 途方もない予算を投じてハリウッドを凌駕するような技術と特殊効果を誇るこの映画は、内容的には70年代の国策映画が復活したような感じを拭えない。 この映画の英語のタイトルは、『私の父への賛歌』だが、“賛歌”という言葉こそがこの映画の基本コードを正確に表現している。 “英雄称賛”コードの北朝鮮視覚文化と奇妙に相通じる部分すらあるが、この賛歌の中では歴史の不都合な真実も被害者の苦痛も全て忘却されてしまうということは、帝国主義戦争と権威主義的資本主義の残酷な歴史が再び繰り返される可能性を高めるだけだ。 反省されない歴史が繰り返されるという真理を、私たちはすでに忘れたのだろうか?

 『国際市場』の主人公トクスは、無一文の失郷民の子供として生まれ、釜山の国際市場で雑貨店を営み中産層に成長した“勝者”だ。 彼が育てた子供たちは海外旅行を楽しむ。 『国際市場』は彼の“人間勝利”に捧げる賛歌だ。 しかし、この勝利はトクス個人だけのものではない。 彼は一貫して大韓民国という国家の縮小版であり象徴として登場する。“無力な弱小国”である大韓民国大統領の戦い続けるという意志を無視して米国が停戦協定を結んだというニュースがラジオから流れた時、米軍人が投げたチョコレートを食べなければならない無力な“少年乞食”トクスも図体の大きな子供たちに殴られている。 それとは反対に、夢の中で戦争のために亡くなった父親から認められ、本当の“父親”になったトクスは、窓から国際工業都市になった釜山を眺める。トクスが“父”に成長すると同時に、大韓民国が -高校生からの人種主義的侮辱を甘受しなければならない- “開発途上国”の外国人労働者を引き込む“中進国”に成長したというのがこの映画の話のあらすじだ。 このような意味で妻と言い合いをしていても、国旗下降式の敬礼を行うトクスは象徴的だ。しかし、一個人を国家の分身に仕立て上げ、国家の一“分子”にするということは、それこそ全体主義美学の基本ではないか? 華麗な服を着て再登場した朴正煕時代式の国策映画が“国民映画”待遇を受ける現在の状況は、私も背筋が寒くなるばかりだ。

 国家と個人が一体化すれば、常に起きることになる最も恐ろしいことは、個人が国家のすることに対していかなる自律的・独立的・批判的評価もできなくなるということだ。 国家から精神的に独立していてこそ批判も可能になるというのに、『国際市場』の“父親”中心の世界では国家という超家父長からの独立は想像すら不可能だ。 このような無批判性は、ベトナム派兵に関連した部分で絶頂に達する。 トクスがベトナムに技術者として行くということをひたすら“危険な金儲け”程度に、鉱夫と看護師のドイツ派遣の延長程度としてこの映画は認識しているが、その金儲けの裏面に関しては、彼も彼を英雄化させる映画の製作者も悩んだ痕跡が全く見られない。 ベトコンが米軍基地に爆破“テロ”を仕掛ける場面は出てきても、米軍がベトナムの村を焦土化させる場面は映画では見られない。 韓国の軍人がベトコンを恐れるベトナム農民を助ける救世主として設定されている。 これは理念的立場の問題ではなく、特にベトナムで今日も生存している韓国軍残酷行為の被害者とその家族に対する二次加害と感じざるをえないだろう。 映画でベトナムに派遣された韓国軍の美化は、韓国に対する一種の“帝国化”の境地に近接する。映画叙事の出発点に該当する米軍による興南(フンナム)撤収と対になるものが、あるベトナムの村の埠頭でベトナムの民間人を救出した韓国軍による撤収作戦だ。 映画の論理で見れば、韓国軍が米軍の“民間人救済”をまねて行うことによって韓国が-被占領地ベトナムに対しては-ある意味“第二の米国”、一つの“亜帝国”になるわけだ。 トクスの妹が米国に養子縁組に行ったように、韓国軍が“救出”したあるベトナム女性は韓国人の夫に嫁入りしたりもする。 帝国主義的戦争の本質を覆い隠し国家犯罪を隠蔽することにより、この叙事は非常に強力な“亜帝国的欲望”を表わしている。 相手の立場で考える視点で観る時、ベトナムの人々がこのような場面を観たならば何を感じるだろうか?

 『国際市場』は、加害者の立場で解釈された国家の国史であり家族史だ。 『国際市場』から見える国家像は基本的に批判が不可能な“絶対善”そのものだが、それ以上に一人ひとりのすべての人生を“家族”が全面的に規定する。 子供の面倒を見ることに一貫する母親は最高の純真であり、船長の夢をあきらめて家族のためにドイツに、ベトナムに行って自分の身体まで犠牲にした長男は孝行息子の鏡であり、結婚するまでは長女として、結婚すれば妻として、両親や夫、子供のために全面的に犠牲になるヨンジャは婦道そのもので、いたずらな妹もやはり典型的な“子供”役割を果し、…権威主義的資本主義の中に溶けてしまった儒教的家父長主義が家族構成員各自に付与した典型化された役割は見られるが、この映画の登場人物は何らかの独立的内面世界を持つ“個人”としてはほとんど自らを表に出さない。もちろん彼らにもそれなりの自分だけの世界はあるだろうが、この映画はひたすら彼らに“親孝行”と“父道”が付与した役割だけを前景化する。このような全体主義的方式で作られた映画が“大韓民国国民映画”として優遇されるならば、私たちは本当に危険な社会で生きていると言わざるをえない。 映画が見せる国家と家族と個人の関係が、民主や人権とはいかなる関係もないためだ。

朴露子(パク・ノジャ、Vladimir Tikhonov) ノルウェー、オスロ国立大教授・韓国学 //ハンギョレ新聞社

 『国際市場』は単純に保守的立場で作られた韓国現代史叙事というよりは、“国益”と“家族”の神聖な名で合理化される経済的“成就”を無条件に優先視し、個人の独立的個性や人権を消去させてしまう極右的思想を現代風に再包装し再流布させようとする一つの試みと見ざるをえないだろう。この映画はまた、朴槿恵(パク・クネ)時代の退行的支配層が好む国家観や個人観、人間観が何かを克明に見せる。 これに対抗して下からの歴史、被害者本位の歴史叙述を書くことが私たちの役割だ。

朴露子(パク・ノジャ、Vladimir Tikhonov) ノルウェー、オスロ国立大教授・韓国学

https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/690847.html 韓国語原文入力:2015-05-12 18:54
訳J.S(3835字)

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