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[コラム] 奴隷労働の苦痛にもまさる人間に対する探求欲

登録:2015-01-30 23:05 修正:2015-01-31 07:56
徐京植東京経済大学教授
絵:キム・ビョンホ画伯 //ハンギョレ新聞社
『パリ・ロンドン放浪記』ジョージ・オーウェル著 小野寺健 訳(1989年岩波文庫)//ハンギョレ新聞社

『パリ・ロンドン放浪記』
ジョージ・オーウェル著
小野寺健 訳(1989年岩波文庫)

 今までにも書いたように、私はよくヨーロッパを旅する。パリに行くと、カルチェ・ラタンにある中華食堂には必ず一度は立ち寄る。鴨ラーメンが美味く比較的安価なその店はいつも満員だ。料理を運ぶ給仕が出入りするたびに、地下厨房への扉が少し開く。その奥の様子はうかがい知れないが、地獄の釜の蓋が開いたように、耐えがたい熱気だけは伝わってくる。その狭い穴倉で一日10数時間、休む間もなく、焼けた鉄鍋に向い合って格闘する料理人の労働はいかに苛酷なものか、などと想像もする。そういう時、わたしはいつも、この本を思い出しているのである。これは1929年の大恐慌時代を前後する時期の、パリとロンドンのどん底にうごめく人々の生態を描いたルポルタージュである。読んでいて文句なしに面白い。

 「貧困」という問題が日本であらためてクローズアップされてから、かなりの年月がたつ。1980年代末頃には、日本社会の多数は、「貧困」は未解決ではあっても分配の公正化を進めていくことによって、徐々に改善可能な問題ととらえていたのではないだろうか。しかし、いまの日本は「貧困」や「格差社会」(「不平等社会」と呼ぶべきである)という言葉が切迫感をともなって語られる社会になった。

 私は昨年11月末、韓国移民学会で「失われた25年」と題する講演を行った。昭和天皇死去とベルリンの壁崩壊以後の25年の間に、日本社会がいかに歴史修正主義という誤った道へと陥って来たかを語ったものだ。しかし、その講演で十分に言及できなかった点がある。それがまさに、この「貧困」と「不平等」の深刻化という問題である。一例だけ挙げてみよう。2014年7月の厚生労働省の調査発表によると、「貧困線」(等価可処分所得の中央値の半分の額)に満たない世帯の割合を示す「相対的貧困率」は16.1%で、過去最悪を更新した。(ちなみに1985年の「相対貧困率」は12.0パーセントであった。)これは、日本人の約6人に1人が相対的な貧困層に分類されることを意味する。日本における「失われた25年」は新自由主義政策によって、国民の多くが貧困層に突き落とされた時代でもある。この本は20世紀前半のヨーロッパを扱ったものではあるが、そういう意識で読むと、異様な現実感をもって迫ってくるのである。

 「貧困」を正面から描いた古典的名著として、フリードリッヒ・エンゲルスの『イギリスにおける労働者階級の状態』を真っ先に挙げることができるであろう。1845年に出版されたこの本は、産業革命後のイギリスを舞台に、資本主義の無慈悲な搾取にさらされる人々の姿を描いている。「勤勉かつ有能で、ロンドンのあらゆる富者よりもはるかに尊敬に値する何千もの家族が、人間に値しないようなこのような状態にあるのだ、どのプロレタリアも例外なしにみな、自分のせいではなしに、またどれほど努力していても、同じ運命におちいるかもしれないのだ、とわたしは主張する。 ……ただ泊まる場所だけでもある者はまだましである。……ロンドンでは、その晩どこに寝たらよいかわからない人が五万人、毎朝目をさます。」

 エンゲルスから90年後にオーウェルが描いたどん底の世界が、『パリ・ロンドン放浪記』である。そのオーウェルからさらに80年以上たった現在、何が根本的に改善されたといえるのか。

 しかし、先に述べたように、この本は読んでいて面白いのである。その面白さの理由は、著者の冷たくもあり熱くもあるユニークな人間観察の視線にある。エンゲルスの視線が社会科学者のものであるとすれば、オーウェルのそれは文学者のものである。社会批判意識をしっかりと保ちながら、その関心はそこに息づく人間の生態に向けられている。私自身つねづね模範にしたいと思うのだが、なかなかオーウェルのようにはいかない。

 ジョージ・オーウェル(George Orwell、1903年6月25日 - 1950年1月21日)は、本名エリック・アーサー・ブレア(Eric Arthur Blair)。イギリスの植民地時代のインド・ベンガルのビハール州に生まれた。曽祖父は、ジャマイカの農場での収入による不在地主として、ドーセットの田舎の裕福な資産家であった。祖父は聖職者だった。父のリチャードはインド高等文官であり、アヘンの栽培と販売をしていた。母のアイダはビルマ育ちである。この家系図を見ると、典型的な19世紀大英帝国の中産上層階級といえる。帝国の家系からジョージ・オーウェルのような異端児が生まれたことが、まことに興味深い。

 オーウェルが1歳の時に母子はイギリスに帰国し、1912年までインドに単身赴任中の父が不在の母子家庭で育った。成長した彼は名門イートン・カレッジに進んだが、幾人かの教授から態度が反抗的と評され、厳しい成績をつけられた。オーウェルは父の勧めで1922年にイギリスを離れ、マンダレーでインド警察に就職したが、帝国主義の片棒を担ぐ警官の仕事を激しく嫌うようになった。1927年にイギリスに帰り辞表を出すと、二度とビルマには戻らなかった。1934年に出版した『ビルマの日々』では、現地人を見下すイギリス人レイシストの姿や、帝国主義の及ぼす腐敗と苦痛が描かれている。これを契機に、彼は両親の反対をおして、文筆家として生きる決意をした。両親に生活上の負担をかけることを嫌った彼は、1928年、生活費がロンドンよりも安いパリへ移り、安宿に居を構えて執筆に専念しようとした。それを発端として始まったどん底生活を描いたのが、この『パリ・ロンドン放浪記』である。パリでのよき相棒といえるロシア人亡命者ボリス、ロンドンでの放浪者生活の先達である大道絵師のボゾをはじめとして、登場するどん底の人物たちのそれぞれが、愛情こもる筆致で生き生きと描かれている。そのすべてを引用してここに紹介できないことが残念なくらいだ。

ある日、ロンドンで、「野牛の死体にたかる鳶」のような腹を空かした100人ほどの浮浪者とともに彼はある教会にでかけた。礼拝の説教を聴く代償にお茶一杯とマーガリンつきのパンにありつけるからだ。しかし、浮浪者たちはまじめに説教を聴かず、途中で逃げ出す者もいる。説教の最後に牧師が「救われざる罪人に呼びかけたい!」と声を高めても、浮浪者たちは平然として、「来週もまたただのお茶を飲みに来るぞ!」と叫んだ。この後に続くオーウェルの感想は、まさに彼の真骨頂といえる。「これは興味深い光景だった。…ふだん慈善にあずかる時に彼らが見せる、虫のように卑屈な態度とは大違いだったのだ。…慈善を受ける者は、必ずといっていいほど、与えてくれる人間を憎むものだ―それが人間性の抜きがたい性癖なのである。」

同時に本書では、パリの大ホテルで皿洗いとして奴隷的労働に従事した経験から語られる労働現場のヒエラルキーについての鋭い考察が展開される。また、イギリスで「放浪者」に対して加えられる理不尽な規制についても、「スパイク」(浮浪者収容施設)の凄まじい内情についても、本書に教えられた。当時のロンドンでは、物乞いすることが法的に禁じられているので、貧しい者は「お金を下さい」とは言わず、「マッチを買って下さい」と言わねばならない。ロンドン市内の公的な場所で座ると処罰されるので、簡易宿泊所に戻るまで何時間でも立ちっぱなしで過ごすという。座る自由もないのである。

この本の結論にあたる部分からすこしだけ引用しよう。「考えてみれば浮浪者とは妙な存在で、検討に値するものだ。おそらくは何万にものぼる人の群が、さまよえるオランダ人のように、イングランドをぞろぞろ歩いているとは妙な話なのである。…子供のころに浮浪者は悪い人なのだと教えられたために、われわれの心の中にはある観念的な、あるいは典型的な浮浪者像ができてしまっている。…ただ物乞いをして、酒を飲んで、鶏小屋を襲うだけの人間だというのがそれである。この化け物のような浮浪者像は、雑誌の物語に出てくる不気味な中国人に劣らず現実とかけ離れているのだが、その偏見を捨てるのは容易ではない。」こう述べたのち、オーウェルは自らの経験をもとにその偏見を論破して、言う。「むろん、大多数の浮浪者が理想的人物だなどというつもりはない。ただ、彼らはふつうの人間であって、世間の人より悪いとすれば、それは彼らの生活様式の結果であって原因ではない、と言っているのである。したがって、よく浮浪者に対してとる「ざまあみろ」式の態度は、身障者や病人に対する場合と同じく、間違っている。」

徐京植東京経済大学教授 //ハンギョレ新聞社

むすびにオーウェルはこんなことを書いている。「すくなくとも一文なしになったらこういう世界が待ってますよ、ということはわかってもらえたはずだ。わたしはいずれもう一度、この世界を徹底的に探ってみたいと思っている。…皿洗いや、浮浪者や、エンバンクメントで寝ている人たちの魂の奥底を理解してみたいのだ。今のわたしには、貧しさの周辺以上のことがわかっているとは思えないのである。…」

この好奇心と探求心!そして細密な記録精神と描写力!…そもそも彼は、パリでどん底生活を経験する必要はなかったのだ。両親に頼ることもできたし、叔母もパリにいたからだ。それでも彼はこの暮らしを選んだ。怠惰から?倫理感から?あるいはロマン的な冒険心から?…そのいずれでもないと私は思う。人間というものを奥底まで知りたいという焼けつくような欲求からである。空腹や奴隷労働のつらさにもまさるその欲求が、この作品のあとに、『カタロニア讃歌』を書かせ、彼を20世紀最高のルポルタージュ文学者にした。『動物農場』『1984年』も、この精神から生まれたのである。

https://www.hani.co.kr/arti/culture/book/675962.html 韓国語原文入力:2015/01/30 10:02
(4254字)

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