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[コラム] 寛容とは、憐憫ではな く、生き生きとした人間的関心だ

登録:2015-01-03 23:35 修正:2015-01-04 16:51
徐京植東京経済大学教授
絵:キム・ビョンホ画伯。//ハンギョレ新聞社
『モンテーニュ旅日記』モンテーニュ著 関根秀雄 斉藤広信訳(1992年白水社)。//ハンギョレ新聞社

『モンテーニュ旅日記』モンテーニュ著
関根秀雄 斉藤広信訳(1992年白水社)

 30歳過ぎまで日本という閉鎖的な空間に閉じ込められていた反動か、私はよく旅に出る。行先はもっぱらヨーロッパだ。2014年の春にも3週間ほどイタリアを旅し、ローマ、フェッラーラ、トリノを歩いてきた。自分がなぜ旅に出かけるのか、そもそも自分は旅することが好きなのかどうか、よくわからない。私は面倒臭がり屋で、やや人間嫌いなところがあり、世にいう旅好きとは違う。そんな私が、旅に関する書物を読んでいて、「ああ、面白い」と心から思う瞬間がある。それは、自分の知識や感覚が数千キロの距離、数百年の時間を超えて、ぐっと広がったと感じられるときである。

 今春のローマ訪問の目的は17世紀初頭の画家カラヴァッジョの作品を集中的に見ることだった。旅から帰って「カラヴァッジョのローマ」という一文(平凡社「こころ」vol.21)を草したが、その際、私はデズモンド・スアード『カラヴァッジョ 灼熱の生涯』(白水社、2000年)を参照し、それに基づいて、カラヴァッジョが暮らした当時のローマについてこう書いた。

 「ローマはカーニヴァルの時に陽気になった。行列や山車、仮面舞踏会、闘鶏、馬上槍試合などが行われた。『哀れな老人やユダヤ人のレース』も行われた。彼らは裸のまま走らされ、ありとあらゆる汚物をなげつけられて嘲笑された。四旬節の聖木曜日の夜になると、何千人という信者たちが松明をかかげてサン・ピエトロ大聖堂めざして行列した。その中には血が流れるまで自分の背中を鞭打つ五百人の修行僧もいた。聖土曜日には聖ペテロと聖パウロの作り物の頭部がサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ聖堂に飾られた。」

 スアードはこうも付け加えている。「カラヴァッジョはサンタンジェロ橋や市の城門の上で腐っていく無数の首を見たにちがいない。……ローマは一六世紀の基準から見ても、この上なく危険な都市だった。もしカラヴァッジョが暴力的な人間になったのだとすれば、この都市がもつ暴力性や野蛮さにもある程度責任があったのかもしれない。」

 ところで、私の推測では、スアードはほぼ間違いなく「モンテーニュ旅日記」を参照したはずである。モンテーニュの著書に、四旬節の行列に関するより詳しく、より生き生きとした記述がある。たとえば、鞭打ち修行僧のくだりはこうだ。「(行進の)列の真ん中に一列の苦行会員がまじっていて、綱をもってわれとわが身を鞭打っていた。その数はすくなくとも五百、背筋は皮膚が剥け血にまみれて、まことに目も当てられぬ姿であった。……にもかかわらず彼らの様子を見ると、その歩みは泰然としているし、言葉もしっかりとしている。(私は現に彼らの何人かが話し合っているところを聞いたのである。)……私のすぐそばに、非常に若い、可愛らしい顔をした少年がいた。一人の若い婦人は、少年がそんなに傷ついているのを見て哀れがった。すると少年は我々の方を振り返って、笑いながらこう言った。『泣かないで下さい。私がこうしているのは、あなたの罪業のためであって、私の罪のためではないのです。』彼らはこの行為にすこしも苦悩や努力のさまを示さないばかりでなく、むしろ歓喜をもってそれを行っている。」

 こういう記述に出遭うと、旅する歓びと本を読む歓びとが一体化して、私の想像は一気に活性化する。つい数か月前私が歩きまわった古い都市の聖堂、広場、橋が、そのままここに登場する。その場所を異形の人々が練り歩く姿を、痛いほどの驚きと好奇心をもって見つめている人物が、モンテーニュではなく私自身であるような気すらする。

 モンテーニュはまた女性にも多大の関心を寄せ、旅の先々で見かける女性たちの描写に多くの紙面を割いている。「ローマ人のいちばん普通の仕事は市街を散歩することであって、ふつう彼らが家から出てゆくのは、たいてい通りから通りへとあてどもなく歩くためなのである。とくにそのためにあてられた通りまである。実を言うと、それから得られる最大の収穫は、窓際による女たち、とくに娼婦たちをながめることである。彼女たちがわざと思わせぶりに鎧戸の蔭でちらちらして見せるので、わたしもしばしば、彼女たちがそうやっていかに我々の眼を刺激するかを知り驚いた。……彼女たちはそのもっとも可愛らしいところによって自分を示すのにたけている。たとえば、顔の上半分だとか、あるいは下の方とか横顔というように、隠したり示したりするので、窓にはただ一人の醜女も見られない。」…モンテーニュが描いたこのローマは、私には自分がつい先日旅したあのローマのようにしか思えない。あたかも自分自身がむかしのローマを訪れたような感覚。その感覚は単純に快いとだけは言えないが、たしかに、自分の住む時間と空間の狭苦しさに気づかせてくれる。同じように、「モンテーニュ旅日記」のヴェネツィア、フェッラーラ、フィレンツェの描写を読むと、私は自分が歩いた街路、眺めた景色、出遭った人々を思い浮かべる。そうして、頭の中で、数千キロの距離だけでなく、数百年の時間をも旅するのである。

 モンテーニュは異国の風習だけでなく、食べ物にも多大な関心を注いでいる。たとえば、「ここはフランスより魚が少ない。とくに『かわかます』はここでは一文の値打ちもなく、庶民の食べ物になっている。舌びらめや鱒は珍重される。似鯉(ニゴイ)はたいそう美味く、ボルドーあたりのものよりずっと大きいが、値も高い」といった調子である。

 ユダヤ教徒の割礼の儀式と手術を観察し、その一部始終を細々と書き記している。筆致は冷静かつ客観的であり、そこに宗教的偏見の影はない。もっとも、彼自身はカトリック教徒だが、母はユダヤ系であった。そのことが異なる文化や宗教への関心と寛容な眼差しにつながったのであろうか。

読者がこの16世紀末の人物と旅をともにする気分を味わうことになるのは、この旅日記がなんらかの公的な使命感によって残されたものではなく、公開を前提とせず、私的で自由な記録として、自由な精神で綴られたものだからだ。

 『(エセー(随想録)』で知られる、ミシェル・エケム・ド・モンテーニュ(Michel Eyquem de Montaigne)は1533年、ボルドーに近いモンテーニュ城に生まれた。父はボルドーの市長を務めたことがある。トゥールーズで法学を学び、法官になった。1565年に結婚。6人の娘が生まれたが、そのうち成人したのは1人だけである。1568年、父の死によりモンテーニュ城を相続。1570年、37歳で法官を辞して故郷に戻り、やがて代表作『エセー(随想録)』の執筆を始めた。

 『エセー』は1580年にボルドーで刊行され、フランス・モラリスト文学の基礎を築いたと評された。モンテーニュが生きたのは宗教戦争の狂風が吹き荒れた時代である。彼が30歳になる直前の1562年、ヴァッシーで新教徒虐殺事件が起き、以後20数年にわたってフランス国内で「ユグノー戦争」と呼ばれる宗教戦争が続いた。『エセー』を書き始めた1572年には、「聖バルテルミーの虐殺」が起きている。旧教徒側に虐殺された新教徒の犠牲者数は1万から3万人にのぼったといわれる。

 モンテーニュ自身は旧教側に身を置いていたが、つねに寛容を説き、正義を振りかざす者に懐疑の目を向けた。『エセー』にはプラトン、アリストテレス、プルタルコス、セネカなど古典古代の文献からの引用が多く、聖書からの引用はほとんどない。近代的な合理主義精神を備えた、人文主義者であったといえるだろう。彼のこのような個性は、私の見るところ、『エセー』よりもむしろ「旅日記」に躍如としている。この合理主義精神がはるか後の時代の日本の、渡辺一夫や加藤周一のような人文主義者にも影響を与え、軍国主義の狂気の渦中にあって「理性」の側に踏みとどまることを励ましたのである。

 「旅日記」は1580年から1581年にかけてフランス、ドイツ、オーストリア、スイスを経てイタリアに旅した記録である。旅の目的はひとまず人文主義者の憧れの地ローマを訪れること、それに持病の腎臓結石の療養のため温泉を巡り歩くことだった。実際、「旅日記」には「疝痛に苦しんだ」とか「(尿から)石や砂が出た」といった記述が頻繁に出てくる。だが、彼にとっての旅とは、それだけのものではない。むしろ、旅に目的はない。旅そのものが目的なのだ。旅の理由を問うものに、彼はこう答える。「何を避けてであるかはわかっているが、何を求めてであるかは自分にもわからない。」(『エセー』)。「旅日記」には、従者によるこういう記述もある。ローマで多数のフランス人に出会い、通りに出れば彼らがフランス語であいさつしてくるので、モンテーニュは機嫌が悪かった。その理由は、彼は自分たちの風習にあきあきしたからこそ遍歴するのであり、異国で自国人に巡り合いたいからではないからだ。

徐京植東京経済大学教授。//ハンギョレ新聞社

 「私はよく承知している。この旅行の楽しみは、文字どおりにとれば不安と動揺との証拠であることを、しかし、この不安と動揺とは、いずれも我々人間の主要な、そして、支配的な特質なのだ。……ほかに何一つ私を満足させるものがなくても、多様性を捕捉することさえできれば、わたしは満足する。」

 旅の大先輩の至言である。自己の内に狭く閉じこもって自足するよりも、たとえ不安と動揺があろうと他者と出会うことを喜びとする。そして、多様性を捕捉することができさえすれば満足する。しかり。「寛容」とは、自己満足的な高みに立って他者を憐憫する態度のことではない、生き生きとした人間的関心をもって「多様性」へと心を開くことなのだ。16世紀の人文主義者が、21世紀という不寛容の時代を生きる我々にそう教えている。

https://www.hani.co.kr/arti/culture/book/671796.html 韓国語原文入力:2015/01/01 19:03
(4184字)

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